2010年、イラン、前書き。

イスラムという文化は、突然、自分の中で凄く重要な位置を占めるようになった。それがいつのことだったのかは正確には覚えていない。

学生時代にマレーシアを貧乏旅行したときに、真っ赤な夕焼けと共に街中に響き渡るアザーンに心打たれたのかもしれないし、

中学生の夏休み、まだ下町の雑踏が残るシンガポールでホームステイをしたときに、イスラム街に衝撃を受けたのかもしれないし、

中東問題を知る上で抑圧されている民族として、いつの間にか本能に刷り込まれてしまったのかもしれない。

まあ、とにかく、鮮明なのは、2007年にモロッコを旅行して、イスラム文化の素晴らしさに触れたときのことである。夕闇迫るフナ広場に鳴り響くアザーン、壮大なモスクのドームとミナレット、赤茶けた岩だらけの大地で生きる人々、その人々の懐っこさ優しさと敬虔さ。

モロッコへの旅の後、日本に帰って来ても、モスクを訪れ、アラビア語を学ぼうとしたり(ほとんどはかどっておりませんが)、コーランを読んでみたり、東淀川区の焼却場さえも、ついついモダンなモスクに見えてしまうほどである。

いや、この煙突はミナレットそのものでしょう・・・。ああ、淀川沿いに響くアザーン、それはきっと空耳。

そして、2008年→2009年は、モロッコ以来、念願となっていたシリアを旅した。一大観光地となっているモロッコよりも、イスラム圏の人々の生活をリアルに感じた。そして、シリアで出会う日本人は、その多くが一人旅で、アジアからユーラシア大陸横断を目指している人や、世界中を回った果てにこの国に辿りついた人、彼らと旅の話をしていると「イランに行け」と言う。そして、いつの間にか、イランへの憧れが止まらなくなる。

そして、2010年のゴールデンウィーク、休みを少しだけ早くいただいて、ついに憧れのイランを旅したという次第。行ってみた感想を簡単にまとめれば、思ったよりも洗練されていて、危険を感じることはほとんどなく、モスクの巨大さに圧倒され、そして何より人が素晴らしかった。

詳細は、たぶんこの後。

2009年→2010年、マレーシア、クアラルンプール。

今回のインド旅行でマレーシア航空を利用した最大の理由はここにある。深夜にデリーを発つと、早朝にはクアラルンプールにいる。ここクアラルンプールから関空へ飛ぶ便はその日の深夜。丸一日、常夏のこの街で過ごせるのだ。燃える太陽、突き抜ける青空、白い雲。陰鬱なデリーが嘘のよう。そして、旨い食事と、冷えたビール。もう、これ以上必要なものはなにもない。

クアラルンプールは開発が急ピッチで進められ、東南アジアでも最も先進的な都市の一つとなっている。空港からはノンストップの高速トレインで街の中心部まで約30分。チャイナタウンで見つけた安宿を取り、荷物を置いて、まずは、クアラルンプールの最古のモスク、マスジッド・ジャメへ向かう。高層ビルの間にひっそりと佇む。存在感には欠けるが、熱帯のモスク独特の涼しげな造りで、これはこれで趣深い。

だが、旧市街はどんどん取り壊され、味気ない高層ビルに変わっている。イギリス占領時代に遡るだろうヨーロッパ風の建物とか、街のあちらこちらに残ってはいるが、いつ無くなってもおかしくないような状態。チャイナタウンは存在はしているものの、お洒落なアーケード街になっていたりして、どうにも落ち着かない。

それでも、食文化は永遠だ。昼飯はチャイナタウンで海南風中華料理をつまみながら、待望の冷えたビールを。不味い不味いインドの飯にぐったりした我々は、この料理を目の前にして、ただただ感動の涙を流す。

昼食後、奇鳥・怪鳥が放し飼いにされるバードパークへ。ヒトの残飯を食い漁る巨大な鳥を眺めながら、大自然の逞しさと人間の存在の小ささを思い知る。

楽しい日はあっという間に過ぎるもの。日が傾くと、チャイナタウンの路上には屋台が並ぶ。空芯菜や鹿肉など、日本ではあまり食せないものを適度につまみながら、またビールを飲んでいたら、あっと言う間に時間切れとなる。

そして、クアラルンプール深夜発の便で極寒の日本へと飛び立ち、またいつもの忙殺の日々が始まったのであった。日本国内を出張で飛び回り、地獄の年度末を生き延びた私は、5月のゴールデンウィークにイランへ飛び立った。続きは、そのうち。