2011年→2012年、インド、前書き

一括りにインドと言っても、それは一つの国家ではあるが、多く民族が住み、それぞれが多様な文化とを有している。僕らが思うインドの言語といえばヒンドゥー語だが、実はヒンディー語が使われているのはインド北部の限られた地域のみである。今回、僕が目指した場所は、今までのインド旅で使いまくった「ナマステ」すら通じない。

南インド、タミルナードゥ州のチェンナイから今回の旅は始まった。タミルナードゥ州の公用語はタミル語であり、挨拶は「ナマステ」ではなく「ワナッカン」である。インドの最南端の街カーニャクマリから西側に北上しケーララ州に入ると、それはマラヤラム語となり、「ナマスカーラム」と変化する。僕らの想像以上にインドは広い。

ここからの話は、2011年の年末にインドのチェンナイから海沿いをフォート・コチまで旅したときのものだ。インド大陸の三角形の先端を、右から左へ、ぐるりと回ったことになる。久しぶりの(そして、これからしばらく続く)一人旅。本当に充実した旅になった。

しかしだ。旅の数カ月前から私生活が崩壊して、夜な夜な酒に溺れる毎日。旅に出る前日、仕事の忘年会もあって適度にワインを飲み、その後、事務所の大家さんにも御用納めの挨拶をしつつ熱燗をいただき、馴染みのおでん屋に行ったあたりから記憶が曖昧になるつつ、しかし、そこから友人を家に連れ込み、締めのうどんを食べて、その後で携帯を忘れたのに気付いて先程のおでん屋に戻って、というところまでなんとなく覚えてはいるのだが、翌日は朝の8時に家を出なければならなかったのだが。

奇跡的に8時になんとか飛び起き、地下鉄を経由して南海のラピートに飛び乗る。無事に出国審査を通り抜けたまではよかったのだが、待ち合いあたりからとんでもない頭痛に襲われた。飛行機に乗り込み、シンガポール航空のサービスのおしぼりを目頭に当てながらテイクオフ。睡眠を取って回復に努めるが、ここで機内食の時間となった。機内に漂う匂い、それが気持ち悪い。食わないと衰弱することは長年の経験からわかっていたので、あっさりした野菜をぼそぼそといただく。そしてデザートには某高級アイスクリームメーカーの商品がでてきた。バニラだったので、思わず美味しくいただいてしまったのだが、どうにもその直後から調子が悪い。機内食のトレイが持ち出されるまで耐える。我が席のトレイが回収され、パッとトイレ(トレイではなく)の方を見れば、機内食から解放された乗客が長蛇の列をなしている。その瞬間、無理を悟り、目の前のエチケットバッグを握りしめ、そのまま…

隣の席の見知らぬ人に平謝りしながら、そんなこんなでシンガポールに着いた。シンガポール空港で食べた中華粥、本当に美味かった。衰弱して末端組織の温度が低くなっていたのだが、中華粥を一口胃に入れた瞬間に手足の先まで熱が通うのがわかる。もう、しばらく無茶な酒は止めようと誓った次第。

シンガポール空港で小説を読みながら5時間程潰して、チェンナイ行きの飛行機に乗り込む。多国籍なシンガポールにおいて、チェンナイ行きの待合室は、まさしくインドそのものの様相。明らかな東洋人は私一人だった。今度の機内食は美味しくいただき、夜の10時頃、インドはタミルナードゥのチェンナイに着いた。外から迫り来る熱気に興奮する。

チェンナイ空港からタクシーでバスターミナルへ向かう。旅行期間も限られているし、チェンナイみたいな大都市で無駄に過ごしたくなかったので、とりあえず南へ。特に行き先は決めていなかったが、機内で読んだLonely Planetで気になったプドゥシェリー。バスターミナルの呼び込みに「プドゥチェリー?」と聞くと、「乗れよ」と言う。これを逃したら次があるのかどうか定かではないし、ほぼ勢いのみで乗り込んでみた。思ったより快適なローカルバス。長距離の移動の疲れにうとうととしていたら、バスの運転手に起こされた。プドゥシェリーのバスターミナルに着いたそのとき、既に朝の4時。とりあえず、甘くて温かいチャイを飲んで眠気を覚ました。

2011年、キューバ、トリニダー。

メーデーの余韻醒めやらぬまま、サンティアゴ・デ・クーバからViazul社の深夜バスで8時間ほど。キューバ島のほぼ中央の南側にトリニダーの街はある。早朝にトリニダーのバスターミナルに着くと、案の定Casa Particularの客引きが大量に待ち構えていた。若いお姉さんが推してくるCasaは旧市街の中心部に近そうだったので、そこに連れて行ってもらうことにした。バスターミナルから歩いて5分ほどのCasaだが、ここは本当に大正解だった。親切な家族と、広くて快適な部屋と、景気の綺麗なルーフトップ、そして何より、お母さんの手作りで、量がたっぷりの朝飯と晩飯が絶品だったのである。

トリニダーは素朴な石畳が残った小さな古い街だ。デコボコの石畳は少し歩きにくいが、コロニアルでカラフルな家を見ながらのんびりと歩き回るだけで最高に楽しい。突き抜けるような青空に、原色の建物がよく映える。マイヨール広場にある塔を望む風景(この投稿の一番上の写真)は、硬貨のデザインにもなっている。日本にとってみれば、平等院鳳凰堂みたいなものだ。

トリニダーは世界遺産にも登録されている所謂観光地であるが、典型的な観光地臭さはあまり感じない。マイヨール広場の周辺は観光客が多く、土産物売りから逃げるのに疲れるのだが、広場から通りを1本隔てただけで、静かな街並みを楽しむことができる。頭上で太陽がギラギラと燃え盛っている時間は、通りに人をほとんど見かけない。どこかで昼寝でもしているのだろうな。暑いし。たまに馬車がのんびりと追い抜いていく。手頃なカフェで冷えたビールを飲みながら、巨大なトカゲの写真を撮ったりして、贅沢な時間をゆっくりと過ごす。

トリニダーは丘の上にあって、それを下っていくとカリブ海に至る。Casaで自転車を借りて、ろくに機能しないブレーキに気を配りつつ、重いペダルを30分程踏みしめれば、美しいカリブ海が広がっている。ビーチは、リゾートというには程遠く、小学生の夏休みに行った海水浴場を彷彿とさせるチープさだが、これがまた魅力。

日が傾いて少し涼しくなれば、学校から帰ってきた子供たちの笑顔が通りに溢れ返る。僕がカメラを向けたときに返してくれた笑顔は、この街が一番だった。日が沈むまでひたすらに散歩して、Casaで山盛り(且つ美味)の食事をいただいた後は、真っ暗な道を歩いてライブハウスへと。

サンティアゴほどではないものの、トリニダーにもいくつかライブハウスがある。なかでも、老舗の風格を漂わせるCasa de la Trovaには滞在中に何度も通った。地元の常連さんとも仲良くなって、深夜2時近くまで、飲んだり、踊ったり。一緒に撮った写真を送ったのだが、ちゃんと届いているだろうか。

ハバナの華やかさ、サンティアゴの熱さ、そして、トリニダーの穏やかさ。キューバの旅としては至極メジャーな3都市であるが、それぞれの街に強烈な個性を感じるのは、資本に侵されていないこの国だからこそかもしれない。人々の明るさの裏には、もちろん貧しさがあるのだろうけれども、それをほとんど感じさせない。もちろん、ちゃっかりと小銭やビールをねだってくるのだが、カラリとしているので嫌な感じもしない。今後、この国の社会の抱える矛盾はどんどん拡大していくのだろうが、人々のこの明るさで乗り切ってくれることを心の底から期待している。また近いうちに訪れたいと思う。

トリニダーでゆっくりと過ごした後、バスでハバナに戻り、泣きながらトロント、そして成田へと飛んだ。そして、この後、いろんな意味での一人旅が再び始まるのであった。

シリアにて。

「どこの国が一番よかったか」みたいなことを聞かれたときには、ほぼ必ず「シリア」と答えている。旅に優劣をつけるのは主義に反するけれど、それでも本当に素晴らしい旅だった。

サラリーマンを辞めて自由業として最初の1年をなんとか乗り切った2008年の年末に一人でふらりと行ってきた。久しぶりにプレッシャーから解放されたというのもプラスに働いたと思う。エミレーツ航空で関空からドバイ経由でダマスカスに入り、ダマスカスからローカルバスでパルミラの遺跡へ、パルミラから小さなバスで(今、一番酷い状態だと言われる)ホムスへ向かい、そこから高速バスでアレッポへ、そしてアレッポから夜行列車でダマスカスへと戻った10日間の旅。

とにかく、ダマスカスやアレッポの旧市街をひたすら歩き倒した。特に、ダマスカスなんて、1万年前から街として存在しているようなレベルだから、積み上がった歴史はとてつもない。迷路のような細い路地を歩き回り、巨大なスークをさまよい、ハマムと呼ばれるスチームサウナで温まり、夕方になれば旧市街の真ん中にあるモスクが美しくライトアップされ、街中に響くアザーンを聞きながら、礼拝をぼんやりと眺めていた。

そして、なによりも、そこに住む人が最高だった。こんな小汚い東洋人でも優しく迎えてくれる。道を尋ねれば、わざわざ目的地まで案内してくれるし、チャイは奢ってくれるし、ヒッチハイクなんて余裕だ。そして、これを書いているちょうど今、シリアで殺されているのは、そんな人達だ。一部の富める国同士の利害の調整で、苦しめられるのはいつもそんな人達だ。

あのときの平和さからは、この状況は全く想像できない。独裁が長年続いていたから、見せ掛けの平和だったのだろうが、社会が壊れる瞬間って本当に呆気無いんだな。今はパソコンの前でニュースを見ながら溜息をつくことしかできないけれど、これ以上の血が流れないことを祈りながら、そのとき撮った写真を貼っておく。今思い出したが、このときに初めてGR DIGITAL IIを買って、ここで写真の楽しさを知ったんだった。本当に、この旅が今の自分の原点だったんだなあ、と。

キューバ編の途中だが、どうしてもこれを書いておきたかったので。一刻も早く、シリアの素敵な人達に平和が訪れますことを。