2012年、トルコ、イスタンブール、その2。

スルタンアフメトからトラムで数駅いくと金角湾(ゴールデンホーン)に出る。有名なガラタ橋はエミノニュという駅が最寄りになるが、路面電車から眺めていた景色があまりに美しかったので、一つ手前のシルケジで思わず飛び降りた。時間は夕暮れ時、海沿いをガラタ橋を目指して歩く。ヨーロッパとアジアとは、便宜上この先のボスフォラス海峡で隔てられている。今、私が立っているところがヨーロッパで、金角湾からボスフォラス海峡を渡れば、そこはアジアになるというわけだ。シルケジからエミノニュまでの海沿いには、アジアへと向かう船が多数停泊している。

それにしても活気が凄い。土曜日の夕方だったこともあり、海沿いの歩道は散歩している人で溢れている。車やトラムもひっきりなしに走り去っていく。手前にあるイェニ・ジャーミーと、高台にあるスレイマニエ・ジャーミイを眺めながらガラタ橋を渡る。ガラタ橋は2層構造になっていて、下はレストラン街、上はトラムも車もひっきりなしに走っていて、歩道からは無数の釣糸が海に垂れている。ガラタ橋を渡り切るとカラキョイと呼ばれる地区だ。カラキョイの金角湾沿いは魚市場になっていて、ここで念願のサバサンドを手に入れた。たっぷりの油で焼かれたサバに、たっぷりのレモンを絞り、固めのパンに挟んで食べる。焼きサバのいい香りに食欲を刺激され、お腹が空いていたこともあり、一心不乱に貪り食った。

いつの間にか日が沈んで辺りが暗くなっている。4月後半のイスタンブールは、まだ肌寒い。イェニ・ジャーミーの裏側の路地から歩いてスルタンアフメトまで戻った。途中の適当な食堂で、キョフテ(肉団子)のトマト煮込みを食べ(というか、トルコの飯は旨過ぎて、逆に困る。正直かなり太ったし…)、移動の疲れもあったので、早めに宿に戻って寝た。

翌朝。疲れはまだ抜けていないはずだが、早い時間に勝手に目が覚めた。カルス行きの飛行機は昼過ぎに出るので、時間までスルタンアフメトを中心に街を歩く。早朝は人が少ないので快適だったが、9時にもなると観光客で溢れ返る。アヤソフィアなんて、入場のために長蛇の列ができていて、その列を見た瞬間、中に入る気がすっかり失せてしまった。まあ、さすがは世界に名立たる観光地。なにせ、東ローマ帝国からセルジュク朝、オスマン帝国と、1700年もの間世界の中心であり続けた街だ。これだけの長い歴史を積み重ねた街は、世界中見渡しても他にないだろう。

そして、現在もその歴史が更新されているのがこの街の魅力だろう。トラムは象徴的だ。スルタンアフメト周辺の道が狭い旧市街、その狭い道をトラムがどんどん走る。歴史のあるモスクの目の前をスタイリッシュなデザインのトラムが走り抜けていく。ここまで歴史と現在とがぐちゃぐちゃに混在した街には、あまりお目にかかったことがない。

他のイスラム諸国と同様か、もしくはそれ以上に、トルコの人々は旅人を温かく迎えてくれる。イスタンブールのような観光地では、もちろん客引きは多いが、普通の親切心で話しかけてくる人も多い。そして、ほとんどの場合、それはサッカーの話になる。イスタンブールにはガラタサライとベジクタシュ、フェネルバフチェの3クラブがあって、ガラタサライのサポであれば稲本潤一のことを覚えているし、ベジクタシュのサポであればイルハン・マンスズのことを聞いてくる。そして、私が大阪から来たと言えば、「おー、ガンバ大阪!」と返してくるが、セレッソ大阪は知らない。悔しい。去年のACLでベスト8まで残ったのに。ああ悔しい。

そういえば、イランを旅したときは、イスファハーンの路上で子供達に「カワサキ!カワサキ!」と声を掛けられた。最初なんのことだかわからなかったのだが、よくよく考えてみれば、川崎フロンターレがイスファハーンを本拠地とするセパハンとACLで死闘を繰り広げた後だった。

そういえば、シリアを旅したときは、アレッポの宿で出会ったマンチェスター出身のイギリス人と、ガンバ大阪が話題に上った。ちょうど、CWCでマンチェスターUとガンバ大阪が戦った年。「じゃあ、君はユナイテッドサポ?」と聞くと、ニヤリと笑って「本当のマンチェスターはユナイテッドじゃない。シティーだよ」と言った。こちらも思わずニヤリと笑って「それはこっちも一緒。大阪と言えばセレッソやで」と言った。彼は、今年は本当に美味しいお酒が飲めたことだろう。私がセレッソを肴に美味しいお酒を飲めるのは、いつになることやら。

世界共通言語としてのサッカー。この旅でもサッカーを好きでよかったといろんな場面で思った。そんなエピソードは、後でたくさん出てくる。

時間をみると、11時になろうかという頃。慌てて宿に戻ってバックパックを担ぎ、空港へと急いだ。

2012年、トルコ、イスタンブール、その1。

いつものように仕事を無理矢理終わらせたことにして、深夜の関西国際空港からエミレーツ航空に乗り込んだ。ドバイ経由でイスタンブールに向かい、イスタンブールから翌日のトルコ航空の国内線に乗り、トルコの東の端・アルメニアとの国境の街のカルスへと飛ぶ予定をしている。

ドバイの空港に着いたのは現地時間の早朝5時。イスタンブール行きの飛行機の出発は11時である。長時間待ちのトランジットには馴れている。トランジットの楽しみと言えば、空港の美味しい飯しかない。ドバイの空港には、エミレーツ航空の客限定で、4時間以上のトランジットのための飲み放題食い放題のレストランがある。ほとんど案内がないためか、実は旅行者の間でもあまり知られていないのだが、これがなかなかのクオリティの飯を思う存分楽しむことができるのだ。

定刻通り空港に着く。ドバイは2年前のイランの旅以来だ。早朝の気だるい空気を掻き分け、薄い記憶を頼りにレストランを求め歩く。そして、そこは確かに2年前は、そのレストランだったところ。表示がBusiness Class Loungeに変わっている。一瞬、血の気が引いたのだが、とりあえず思い切って突入した。2年前は無愛想だったはずの窓口の女性係員の愛想がやたらと丁寧である。さすがBusiness Class Lounge。しかし、その愛想は、全身ジャージの汚らしい東アジア人を一瞥した瞬間に変化する。

私「ここって、ビジネスクラス専用?」
係員「そうですけれども、何か?」(汚物を見つけたような目で)
私「ここって、トランジット客向けのレストランじゃなかったっけ?」
係員「違います。」(汚物が思ったより面倒くさかったときの目で)
私「ええと、確か2年前はトランジット客のためのレストランだったと思うんだけど」
係員「ねえ、2年って長いと思わない?」

そうだよね、2年は長いね。いろんな意味で。妙に納得して引き下がった。

どちらにしろ腹は空いている。例えば、ここが東南アジアの空港であれば、安定して美味しい食堂には困らないのだが、残念ながらここはドバイだ。売店で選んだ弁当は、ラム・ブリヤニ。口にしたが、なんだか絶望的に味の根幹がない。慌てて塩をもらってパラパラと振り掛ける。塩味さえも吸い込まれて消え去るような、それはまるで味のブラックホール。一人でぼそぼそと食す。

エミレーツ航空は、機内食は美味しいし、サービスも文句がないのだが、いかんせんドバイの空港が退屈だ。日頃あまり読む時間がない長編小説をめくりながらも、疲れでうとうとしつつ、漫然と時が過ぎるのを待った。

ようやく11時。飛行機に乗り込み、イスタンブールに着いたのは現地時間の16時を過ぎた頃。イスタンブールのアタテュルク空港から地下鉄と路面電車を乗り継いで1時間弱、スルタンアフメトの駅で降りた瞬間、いきなり巨大なブルーモスクとアヤソフィアが目に飛び込んできた。

安宿街は、ちょうどこの裏手に当たる。いくつか安宿を回ったが満室ばかり。3軒目で別の宿を紹介してもらい、ようやく部屋を確保した。1晩10ユーロのドミトリー。屋上に立てば、アヤソフィアが正面に迫る素敵な立地だった。

宿のスタッフと立ち話。
彼「トルコは初めてか?」
私「うん、そうですけど」
彼「この後はどこに行く?」
私「ええと、明日、カルスに」
彼「カルス?なぜそんなところに行くんだ?何もないし、危ないぞ」
私「いや、別に、ただ行きたかっただけで」
彼「イズミル、エフェス、パムッカレ、いいところはたくさんあるぞ」
私「んー、そうだね…」
彼「それからカッパドキアだ。カッパドキアは必ず行きなさい。わかったね?」
私「メ、メイビー…」
ごめん、カッパドキアすら行ってない。しかし、東トルコは、イスタンブールの人から見ても辺鄙なところというイメージを持たれているようだ。逆に、私の気持ちはこんなところで盛り上がる。

さて、宿に荷物を置く。極度の寝不足だがテンションは高い。このままイスタンブールの街を徘徊することにする。まずは海を目指した。アジアとヨーロッパが(便宜上)交錯するボスフォラス海峡、そこからヨーロッパ側へ入り組んだ金角湾へと。

気仙沼から宮古までを旅した話。

普段は西日本にいることが多いこともあって、東日本大震災の情報が入ってくることが次第に少なくなってきた。日々のニュースは、原発再稼働や、維新のナントカとか、芸人いじめとか、うんざりするようなノイズばかり。運よく被災地を含めた東北での仕事に関わることになったので、まずは自分の目でじっくりとその土地を見ておく必要があると思った。2012年5月、通常業務の合間をなんとか縫って、新幹線を乗り継ぎ盛岡まで、そこからレンタカーを借りる。東北自動車道を一関まで南下し、国道284号線を2時間、ようやく海に出ると、そこは気仙沼であり、さらに海沿いを宮古まで北上した。

山側から気仙沼の市街地を通り抜ける限りでは、津波の被害を感じさせるものはほとんどない。しかし、港に出ると光景は一変する。あちらこちらで建物の取り壊しが行われている一方、取り壊しを待つ建物もまだまだ多い。車を駐めて、港沿いを歩く。海に落ちたままの桟橋の隣で、フェリーは元気に運航していた。

気仙沼の港に隣接して、プレハブの復興屋台村ができていた。街を歩いた後で、少しだけ立ち寄って話を聞いた。おばちゃん曰く、気仙沼はこのへんでは一番復興が進んでいないだろうとのこと。確かに、今回訪れたところでは、建物の取り壊しは進んでいなかった方だった。冷凍のフカヒレスープと、ポン酢しょうゆをお土産に買って帰った。

気仙沼の街を出て北へ向かうと、すぐ目の前に巨大な船が迫ってきた。ただし、船は陸の上にある。津波に乗ってやってきた船が未だに道を塞いでいる。震災が起こった当時のニュースの映像でみた記憶があった。まだ残っていたという事実に、まずは正直驚いた。私以外の人々は、まるでこれが遠い昔からこの場所にあったかのように、至極当たり前に目の前を通り過ぎて行く光景がなんとも不思議に思えた。

気仙沼からいくつか山を越えると陸前高田である。iPhoneの地図アプリで、陸前高田の中心部となっていた場所に立ち、360度眺めて、しばし言葉を失った。そこは、見渡す限りの更地と瓦礫の山に変わっている。川に架かった青い鉄の塊は、三陸鉄道の唯一の名残だ。平地が多いため、根こそぎやられてしまったらしい。綺麗に咲いていた菜の花は、余計に物悲しさを感じさせる。

さて、陸前高田からさらに北へ、大船渡の街に出た。海沿いは更地になってしまっているが、新しい道がしっかり整備されていたし、太平洋セメントの工場はしっかりと動いている。この辺りは工場が瓦礫処理を受け入れたこともあって、復興のスピードが速かったと聞いた。仕事の打ち合わせを何件かこなして、その夜は大船渡のホテルに一泊する。海からほど近い場所にあるホテルの周囲は廃墟となったビルか更地。泊まったホテルも2階の天井まで水が来たらしいが、なんとか営業を再開できたとのことで、工事関係者で賑わっている。

そんな中でも、お店は営業を始めている。夕焼けで赤く染まった空を眺めながら、「おおふなと夢商店街」を通り抜け、飲み屋が集まる「大船渡屋台村」に足を運んでみた。たまたま入ったお店のお姉さんは、震災前に近所で店を持っていたそうだが、店も自宅も流されてしまったらしい。流された自宅には補償が出たが、流された店には補償はない。生きていくためには稼がないといけないので、そんな店が集まって、この屋台村ができたそうだ。

屋台村が建っている土地は、震災前にはお店や住宅が混在していたところで、営業の許可を得るのだけでも相当の苦労があったとのこと。しかも3年の時限つき。なぜかというと、某大手企業が土地を買い取ることが決まっているそうなので、屋台村は出ていかざるを得ない。かといって、出ていく先もない。津波の被害が大きい場所は、土地の利用計画がまだ決まっていないので、建物を建てられる状況にはないそうだ。「どこかのお金持ちが建ててくれたら、私は家賃払うし、ちゃんとお店が出せればいいんだけど」とお姉さんは明るく語る。それを聞きながら、私ができることと言ったら、熱燗をもう1合追加することだけだった。

大船渡には北里大学の水産系の学部があって、震災前には学生が600人程度いたのだが、それも現在は閉鎖中である。「もう戻って来ねえのかな・・・」と4軒目のカウンターで隣に座ったおっちゃんはボソッと呟いた。それでも、研究者はそこに入って、水産の復興のために仕事をしている。また、養殖用の設備を全て流された漁業者も、そこに希望を見つけてがんばろうとしているし、この日の昼間はそんな姿をみながら、ちょっとだけ涙腺が緩んだのは内緒だ。

翌日の朝は打ち合わせをした後、さらに北へ、大船渡から釜石へと抜ける。釜石はこれまでに訪れた街の中では一番規模が大きい。工場が集積した港からバイパスを通り市街地へと進むと、被害が色濃く残っていた。適当な更地に車を駐めて、街を歩く。石応禅寺の麓にプレハブ建ての「青葉公園商店街」が営業していたので、お惣菜屋でオニギリを買った。商店街に隣接して、「KAMAISHIの箱AOBA」という交流の場がある。ネットが自由に利用できるし、いろんな情報が集まっているのだが、それ以上に、何よりスタッフの方の釜石に対する思いが伝わってくる。スタッフのお二人に釜石の美味しいものをいろいろ教えてもらった。駅前のまんぷく食堂の海鮮丼、すごーく美味しかったです。ありがとうございました。また必ず来ます。

時間もあまりなく、このまま盛岡に戻ろうかと悩んだが、後悔はしたくなかったので、さらに北を目指すことにした。釜石の隣に位置する大槌は、陸前高田のように街が忽然と消えていた。残っているのは2階まで抉り取られた鉄筋の建物だけ。お腹がいっぱいだったので復興食堂で何も食べられなかったのが残念。ここも再訪を誓う。

さらに1時間走って、宮古に至る。街中は別段変わりはないようだったが、いつの間にか浄土ヶ浜に迷い込むと、橋桁は落ちたままで、その背後の街は壊滅状態だった。仮設店舗の道の駅でお土産を買いつつ、すっかり時間がなくなって焦りながら盛岡へと戻る。慌ただしいことこの上ない。

自分で走ってみて初めて、被災地の広さを実感することができた。しかも、今回見ることができた地域は、ほんの一部でしかないのだ。また、釜石や大船渡といった比較的大きな街ではなく、その間の、小さな街こそ、まだ復興は手付かずだったことがわかる。自分が愛媛で仕事しているところは、そんな小さな街だし、ひとごととは思えない。

美しいリアス式海岸を作りだしたのが自然であれば、それを破壊したのも自然であり、それに逆らって生きることはできないし、自分のできる限りのことをやるだけだ。まだ何も言う資格はないのだけれど、(弁理士というよりは)水産の仕事をやっている以上、これだけは避けては通れない道であるとを思う。これから、できる限りのことをやりながら、何度もこの地を訪れて、少しずつ変化していく様子を眺めてみたい。