トルコ、ネムルトダーゥ。

運良く同じ宿に居合わせたヘムルートとエマ。彼らのレンタカーに同乗し、シャンルウルファからネムルトダーゥを目指した。朝9時にホテルウールを出発。ネムルトダーゥへの起点となるキャフタへは約3時間。前日の空は厚い雲に覆われていたが、この日は奇跡的に天気がよく、抜けるような青空が広がっている。途中、小さな街をいくつか越えた他は、アナトリアの大地を貫く1本の道をひたすら走る。見晴らしのいいところで車を停めて、お昼ご飯をいただいた。彼らが買っておいてくれたトマトやニンジンを生のまま豪快に齧る。何の変哲もない単なる野菜なのだが、これがやたらと美味かった。

道に迷ったりしながら昼過ぎにキャフタに着いた。ネムルトダーゥは、ここから公共交通機関の一切ない山道を3時間以上走ってようやく辿り着く秘境の中の秘境である。キャフタに一泊するというエマとヘルムートは、適当な安宿にチェックイン。僕は、夕方のバスでシャンルウルファまで戻るつもりだった。エマは、「部屋の値段がガイドブックに書いてあるよりも全然高い!」とぷりぷり怒っている。ホテルのスタッフは、悪びれる様子もなく「最近建て替えたもんでね」と澄ましている。よく見る旅先の光景。今日も平和な昼下がりである。

彼らがチェックインを終えるのを待って、いよいよネムルトダーゥまで走り出す。誰もロードマップを持っていないし、もちろんカーナビなんてあるわけないし、頼りになるのは、僕の持っていたLonely Planetのアバウトな地図だけだという状況。途中、いくつかの遺跡に立ち寄る。カラクシュという遺跡は、動物の彫刻が上に乗っかった柱が東西南北に建っていて、真ん中が人工的な丘になっているミニ・ネムルトダーゥといった様子の墓である。少し高台からの眺めても人里を臨むことはできない。空の深い青と荒涼とした大地にひっそりと佇んでいる遺跡で、旅人がたまにやって来て、また去って行く。

さらに奥に進んでいくとジェンデレ橋、その先から一気に山を駆け上がったところにあるのがアルサメイア。コンマゲネ王国の神殿があった場所には、国王とヘラクレスとが握手するレリーフが残っていて、エマちゃんは全裸のヘラクレスの胸筋がお好みのご様子だった。いやいや、そんなポーズを取れとヘムルートが囃し立てたので乗っただけだ。ヘムルートが連発するどうしようもない親父ギャクと、キレながら突っ込むエマの素敵なコンビネーションの完成度が高過ぎて、道中全く飽きることはない。

さらに山奥へと進む。急勾配且つ舗装されておらず、車1台ギリギリ通れる細さ、踏み外したらすぐ崖を転がり落ちるような山道を登り切り、5月だというのに雪が残る高さまで上がってきたところで、ようやく見えてきた。2000年以上も前に人工的に作られた、こんもりと盛り上がったネムルトダーゥの山頂が。最寄りの駐車場に車を置き、ここからは歩きで頂上を目指す。キャフタの街からたっぷり3時間。眼下に広がる風景は、この一帯が宙に浮いているのではないかと錯覚させられるほど。瓦礫の地面を踏みしめ、20分かけて登ると、巨大な首のない彫刻と、地面に並べられた生首が迎えてくれる。

ネムルトダーゥは、瓦礫を人工的に積み重ねた頂上、そして、その頂上を東側と西側とから守るように彫刻が立っている。比較的整然とした東側に対し、雪渓を越えて奥を回り込んだところにある、西側は、無造作に生首が放り出され、いくつかは雪に半分埋もれたままだったりする。やや斜めになりかけた日の光が生首を照らし、影が生々しく彩られる。この遺跡を作ったと言われるコンマゲネ王国が亡くなってから2000年もの間、誰も来ない山奥で待ちくたびれたのか、はたまた騒々しい観光客に辟易しているのか。どちらにしても、当たり前だが石のように固く険しいその表情からは、栄華を誇った王国が、天国に近いところに建造物を作ったという優越感というより、徹底的に人里を嫌い離れなければならなかった陰鬱さが感じ取られた。

日が暮れる前に山を下る。来た道とは少し違うルートを選択した。小さな村をいくつか通り抜ける道。お手伝いをしてきたのだろうか。たっぷりの牧草と一緒にロバの背に乗った子供たちとすれ違う。車を停めて話しかけてみる。外国人が珍しいのか、少し恥ずかしがりながらも、素敵な笑顔を見せてくれた。ガイドブックにも載っていない小さな村とそこに住む人たち。そんな村々だけを巡る旅というのもいつかしてみたいと思う。

キャフタに戻ったのは19時。シャンルウルファへの最終のドルムシュ(乗合バス)の時間は18時だったらしい。なんと。ネムルトダーゥでゆっくりし過ぎて終バスを逃したのであった。という訳で、急遽キャフタにて1泊決定。結局、ヘルムートとエマと部屋をシェアすることになった。最後の最後まで世話になってしまいました。本当にいい旅ができた。どうもありがとう。この素晴らしい地球の上のどこかで、きっとまた会えることでしょう。

トルコ、シャンルウルファ。

翌朝、ディヤルバクルの郊外のバスターミナルから、シリアへの国境に近いシャンルウルファへと向かった。ここを拠点にしてネムルトダーゥを目指すことにする。ネムルトダーゥの麓にあるキャフタの街は、ディヤルバクルからの距離はそう遠くないものの、直通のバスを見つけることはできなかったのだ。複数のバス会社で聞き回った限りでは、ディヤルバクルから、キャフタの隣町のアディヤマンまで1日1便、しかも着くのは夜。着いたその日のうちにキャフタまで移動できる保証はないし、キャフタやアディヤマンは街としてはあまり魅力的ではないので、時間を無駄にはしたくない。地球の歩き方を調べてみると、シャンルウルファからネムルトダーゥへのツアーが出ているという。シャンルウルファは、ディヤルバクルから幹線道路で3時間の距離にあってバスは頻発、大きなモスクや旧市街、そして何より飯が旨いといわれているところだ。残された時間も僅かということもあり、とりあえずは最後の拠点をシャンルウルファに定めることにした。

シャンルウルファ郊外の長距離バスターミナルから、ローカルバスに乗り換えて街の中心部へ。すぐに見つけることができた「ホテルウール」は、宿の親父が親切で、共有のリビングルームの居心地のいい、典型的な素晴らしき安宿の一つだった。このような宿のある街には世界中のバックパッカーが集まって長居する。情報ノートには、近郊の街だけでなく、シリア国境の越え方や、イラクのクルド人自治区の行き方も詳しく書かれていた。クルド人はトルコだけでなく、イラン、シリア、そしてイラクの国境で分断された地域に住んでいる。自治権が与えられているのは、現在のところフセイン政権が崩壊した後のイラクのみ。シリアの不安定さが増すにつれ、自治権を得ようとするシリアのクルド人、それに呼応するトルコの急進的なクルド人と、それを恐れ独自の解決策を模索するトルコ側、さらに、それを挑発するシリア側。第一次世界大戦後に無理矢理に引かれた国境線が、自らの歪みに耐え切れずに人々の命を巻き込みながら音を建てて崩れていく。月並だが、早く平和が訪れることを祈ることしか僕にはできない。権力の綱引きや国境の線引きよりも、もっともっと大切なものがあるだろう、と。

宿から10分ほど歩けば、大通り沿いに旧市街独特の迷路が広がっていて、迷路の中には美しいモスクが点在している。路地裏に迷い込んでも、待ち構える子供は朴訥としているので、ディヤルバクルよりも断然歩きやすい。旧市街の迷路を貫く大通りを突き当たると、その先は賑やかなバザールとなっていて、それを抜ければ巨大なモスクが見えてくる。ここ一帯は緑の多い公園で、預言者アブラハムが生まれたのがこの地であるとされている。イスラム教においても、アブラハムは非常に重要な預言者の一人で、アブラハムを祀ったその巨大なモスクには、昼間から参拝者が絶えることはなかった。公園の中には池があり、アブラハムの伝説から聖なる魚とされているコイがうようよと泳いでいる。参拝客が投げた餌を、丸々と太った聖なる魚が我先にと奪い合う姿をひとしきり眺めたあとで、僕はまた旧市街歩きに繰り出した。

シャンルウルファは、食べ物が美味しいトルコの中でも、さらに食の街として知られている。路地裏の食堂は、店の前に椅子と机を並べていて、そこに座って夜風に当たりながら食べるのが気持ちいい。シャンルウルファ名物のラフマジュン。小麦の生地を焼いたピザのようなものに野菜を挟んで食べるのだが、ほどよい柔らかさのピザ生地と控えめな味付けがまた旨い。テーブルの上には野菜が山盛りになっていて、包丁とまな板が1人1セット置いてあり、勝手に刻んでラフマジュンの具にする。アナトリアの肥沃な大地で育った新鮮な野菜は食べ放題。もりもり食う。

路上で夕食を終えて宿に戻ると、リビングのソファで同じ宿に泊まっている旅行者が集まって皆ビールを片手に、わいわい話をしていた。僕も、宿の近所の売店でビールのボトルを買って、その輪に加わる。ドイツ、オーストリア、シンガポール、日本の陽気で多国籍な旅人達と、宿の主のムスタファ。旅の話から、自然と国際情勢へと話題が移り、クルド人の問題、アメリカ・イスラエル、イラン核開発など、盛りだくさんの熱い夜。議論をオカズに、個人的にはビール瓶2本を空けると、気が付けば深夜だった。

さて、翌日はネムルトダーゥへと旅立ちたいが、ネムルトダーゥへは公共交通機関は存在せず、ツアーで行くしなかい。この宿でもネムルトダーゥへのツアーを企画しているのだが、車の台数で値段が決まるので一人旅には酷である。一緒に飲んでいた仲間を誘ってみたところ、レンタカーで旅している2人が明日ネムルトダーゥに出発するとのこと。連れて行ってくれと頼んだら快諾いただいた。ドイツ人のおっさんのヘムルートと、彼とたまたま飛行機の席が隣だったというだけで一緒に旅をして来たエマの凸凹コンビに、僕が相乗りすることに。明日からお世話になります。よろしく!

トルコ、ハサンケイフとディヤルバクル。

ディヤルバクルの旧市街は広く、城壁に囲まれた巨大な迷路はとても1日で回りきれるものではない。しかし、迷いこむたびに糞ガキどもが纏わりついてきて疲れることこのうえない。そこで、その翌日は郊外まで足を伸ばすことにした。目指すはハサンケイフ。クルドの人と話していると「必ず行っとけよ」と念を押される場所である。ディヤルバクルからドルムシュ(乗合バス)で1時間のバトマンという街で、ローカルバスに乗り換えてもう1時間。ハサンケイフは、チグリス川に沿った本当に小さな街だ。

ハサンケイフには、古くはメソポタミアの文明の痕跡が残り、さらにローマ帝国の砦が築かれ、その後、複雑な文化的背景を有するトルコの縮図であるように、キリスト教やイスラム教などさまざまな要素が塗り重ねられながらも、現在でも人が住み続ける“生きた”遺跡である。そして、ハサンケイフの数千年の歴史は、僅か数年後に終了することが決定している。チグリス川を堰き止めたダムがこの地に建設されるため、ハサンケイフは街ごと湖の底に沈むことになる。ダム建設は、経済的に貧しい東トルコを活性化する政策の一つだそうだが、公共事業で地方に一時的な利益がばら撒かれても、それによる持続的な発展が大して期待できないのは、僕らも身に染みてよくわかっているはずなのだが。

バトマンから寿司詰め状態のバスを降りる。チグリス川に架かった橋を歩いて渡ると、川に沿った切り立った崖の上に小さな街が見えた。日曜日ということもあるのか、近郊からの観光客で賑わっている。皮肉なことだが、ダム建設が決定して以降、ここに訪れる人は劇的に増えているらしい。土産物や食堂やカフェが立ち並び、客引きの声が煩わしい路地を抜け、街の全景を見渡すことのできる高台に登る。チグリス川から突き出しているのは約1,000年前に建てられたという橋脚の跡だ。周囲を見渡してみると、この地は山に囲まれたすり鉢状の地形であるのがわかる。この巨大なすり鉢全体が湖になるということらしい。そういえば、高台に登る入り口で、貧しい子供がその場で摘んだ菜の花を観光客に売り付けようとしていた。カメラを向けると、菜の花を掴んだまま最高の笑顔を返してくれた。残念ながら菜の花は買えないけれど、お礼に飴ちゃんをあげよう。この街が湖の底に沈んだとき、彼らはどこに行くのだろうか。行く場所はどこにあるのだろうか。

ハサンケイフは、さまざまな人々や団体がその保全を訴えていて、この日も署名を集めるブースが用意されていた。民間の団体だけではなく、ヨーロッパ諸国も政府単位で反対を表明しているにも関わらず、トルコ政府は意地でもダム建設を推し進めようとしている。治水や発電の必要性がどれだけあるかは余所者の僕が言うべきことではないだろうし、考古学的な評価もよくわからないのだが、この美しい光景を永遠に失った代償として得られるものって、本当にそこまでの価値があるのだろうか。ダムの建設は一部ではもう始まっているものの、完成は4年後となる。多くの人がその保護を訴えて活動を続けているし、諦めるにはまだ早いのかもしれない。
Save Hasankeyf and the Tigris Valley ! 

ハサンケイフを満喫した後、ドルムシュを乗り継ぎ、ディヤルバクルに戻った。ハサンケイフを出る頃から、あれだけ晴れていた空に分厚い雲がどんどん広がってきて、ディヤルバクルに戻ったときには豪雨に変わっていた。まさに、だけども問題は今日の雨。傘がない。旧市街のバス停から宿まで必死に走る。びしょ濡れのまま、すぐにシャワーを浴び、部屋に戻ってうとうとしていると、気が付けば雨は止んでいた。時間はもう日暮れ時、ディヤルバクル旧市街の散歩に出かける。ふと好みの裏路地に折れると、チャイハネから騒々しい音が漏れ聞こえてきた。店内のテレビはサッカーの試合を流していて、その前に若者が群がり、1つ1つのプレーに歓声を上げている。物欲しそうに眺める僕に気付いた一人が手招きをするので店に入ると、テレビの真正面の特等席を無理矢理用意してもらった。他の人に申し訳ない気もして最初は遠慮したものの、結局はありがたくそこに座り、熱いチャイをちびちびと飲みながら試合を見る。

テレビの中では、リーグ戦が終わった後の上位4チームがUEFA Champions LeagueやEuropa Leagueの出場権を争うプレーオフが行われていた。本日の試合はガラタサライとトラブゾンスポルだ。僕が入店したとき、既にガラタサライが2-0でリードしていた。そして、チャイハネに集う人たちの多くはガラタサライを応援している。ガラタサライは、カメルーン代表のエブエが一人でボールを持ってサイドを駆け上がり、超絶的な個人技でトラブゾンスポルの守備を破壊し尽くしている。一方のトラブゾンスポルは、アルゼンチン人のグスタフ・コールマンが中盤で抜群のキープ力を発揮しているものの、他の選手が彼と同じイメージを抱くレベルまで到達していない印象がする。前半終了間際、ガラタサライのFWネカティ・アテスが決めて3-0になった。そして、ハーフタイム。

チャイハネの前で雨上がりのひんやりした外気に当たっていると、一緒に観戦していた若者3人組に声を掛けられた。話があると言って暗い路地へと消えたので、ちょっとビビりながらついて行く。人気のない裏路地で、その若者は自分のことを「PKKのメンバーだ」と言った。ジーパンにパーカーを着た普通の若者たち。おそらく20代前半くらい、もしかしたら10代後半かもしれない。屈託のない笑顔で、腕に入った刺青の文字を自慢してくる。何と書いているのかはわからなかったが、クルドに対する帰属意識を刻んだものなのだろう。彼らは英語ができず、私もトルコ語やクルド語は挨拶程度だし、なかなかコミュニケーションを取ることができない。そういえば彼らはチャイハネでガラタサライを応援していたはずだ。思い切って、「なんでガラタサライが好きなの?クルドのチームじゃないでしょ?」と聞いてみた。ガラタサライはご存知の通りトルコリーグで最多優勝を誇る金持ちクラブで、イスタンブールのヨーロッパ側に本拠地を置く。それって、トルコの権力側を象徴するようなクラブではないの?その意味では対戦相手のトラブゾンスポルの方が、クルド人が住む地域に近いし、そもそもディヤルバクルを本拠地とするディヤルバクルスポルもあるし(日本に帰ってから調べてみたら3部まで落ちているようだったが)、他にもクルド系のクラブもあるのに。

返ってきた答えは至極簡単なものだった。一瞬、僕の質問に当惑したような表情を見せた後、満面の笑顔で「ガラタサライもクルディスタンだ!」と言い放った。いや、そんな無茶な。緊張が一気に解けて膝からへなへなと崩れ落ちる。日本のひと昔の田舎の小学生が皆ジャイアンツが大好きだったように、単に強いチームが好きだという無邪気さの表れではないか。いや、却ってそんな無邪気な彼らが、自らPKKを名乗っていることの方が驚きではある。彼らは「近いうちにゲリラに行くんだ」というようなことも言っていた。元を辿って考えてみれば、ローマ帝国の時代から戦争が耐えない地域であるにも関わらず、独自の文化を守り続けている人たちだ。もちろん、PKKとしての行為を肯定するつもりはない。ただ、そんな歴史を自ら背負おうとする彼らがPKKの一員であるということは、僕たちが感じるほど特別なことではないのかもしれない。

彼らと一緒にチャイハネに戻ったときには、既に後半戦が始まっていた。トラブゾンスポルもコールマンが意地を見せて1点を返す。次第にどちらも中盤のプレスが緩々になり、ノーガードの殴り合いになってきた。ガラタサライのエブエのキレは相変わらずで、サイドから中に切り込んで見事な得点を決め、チャイハネの盛り上がりは最高潮に達する。最終的には4-2でガラタサライの勝ちで終わった。皆とても満足そうに帰っていく。先程の若者を見つけたので別れの握手をした。彼はガラタサライが勝ったことで、本当に機嫌がよさそうだ。別れ際、なんて声を掛けたらいいのかわからなかったので、「死んだらあかんで」と、思わず日本語で呟いて、真っ暗な細い路地を一人宿へと歩いて帰った。

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