ラホール、その2。大(計画)停電の夜に。

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同行者が倒れた。フンザからラホールまで実に30時間にも及ぶバス旅、ラホールの厳しい暑さと舞い上がる埃、安い食堂でチャパティを揚げるギトギトの油、倒れた要因は複合的であると思われる。当初の予定では、ラホールからインドに入りダラムサラに足を伸ばすことを考えていたのだが、こんな無茶な旅ほど無理する必要はない。宿の主に延泊をお願いしに行く。幸いシリア人の親父と我らしか客はいなかったので、延泊には何の問題もなかった。ただ、この灼熱混沌都市の片隅のふざけた安宿に体を壊して滞在することが果たして好ましいことかどうかは、この際、考えないようにしたい。

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昼過ぎ。宿の共有スペースの屋上でゆっくりしていると、気温が最も高くなるこの時間に、突如としてテレビが消え、扇風機が止まった。停電だ。テレビでサッカーの録画放送を見ていたシリア人は、首を振って、その興味の対象を手元の小説に移した。彼は、ドイツ育ちで、今年のチャンピオンズリーグの結果にほくほくしている。ちょうど彼のお気に入りのバイエルン・ミュンヘンが、準決勝でバルセロナを叩きのめしたばかりだからだ。僕らがここにいた間、彼はずっとテレビの前に居座って、電気が来ているときはサッカーとドラマを交互に見て、そしてサッカーの試合が流れている間に停電が起こるたびに、いつも悲しそうな表情をして、首を振った後で小説に取り掛かっていた。既に1年ほど旅をしていて、カラチに飛んで友達と会ってから、中米かウクライナか、どこでもいいから涼しいところに行きたいと言っていた。

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同行者は部屋で寝ている。昼間の停電が終ったので、この時間は部屋の扇風機が回っているはずだ。僕はと言えば、再びラホールの旧市街に立っている。過酷な暑さからの解放、その夕闇の訪れを祝すかのように、あちらこちらからモスクからアザーンが鳴り響く。そうだ、イスラムは夜の文化だった。月と星とのシンボルが表すように、彼等は夜の闇を待って、灼熱の大地を渡り歩いた。そのせいか、イスラムの街は、夜になると一層その美しさを増し、人々の眼はギラギラと輝き出す。

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突然街の灯りが消えた。停電だ。頼りになるのは発電機を持つ比較的裕福な店の灯りだけで、その灯りと灯りの間の闇をホンダのバイクのヘッドライトが切り裂いていく。こうなれば好奇心旺盛な彼等も、珍しい日本人を見分けることはできない。闇の中なら、僕は、人の波に紛れ、あてもなく歩くことができる。そうだ、このへんで野菜を買って、宿に帰って料理を作ろう。近所のスーパーで見つけた中国製の安いインスタントヌードルにぶち込んで煮込んでしまえばいい。パキスタンのカレーは辛くて、体を壊すと食べられるものなんてここには何もないのだから。ラホールの旧市街の暗闇の中、そして、僕はひとり野菜を求めて歩き出した。

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ラホール、その1。歴史と混沌と停電の街と、全てを包み込むアザーンと。

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23時間の旅を終え、ラワルピンディ・ピルワダイのバスターミナルでタクシーを捕まえて高速バスのターミナルへと移動した。Daewoo Expressというバス会社を、地球の歩き方の読み方に習って「ダーウー!ダーウー!」と言っても全然通じないし、朝から大声で騒ぐおもしろ外国人扱いされ、暇そうなおっちゃんがわんさか集まってきてこちらを見て笑っている。見世物ちゃうわと思いながらいろいろ試した結果、「ダウェヴォー!!!」と叫んだら、タクシーの運ちゃんは「オオ、ダウェヴォー、オーケーオーケー」と言って、ようやく車が出た。もうガイドブックさえ信じられない。

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目的地は、パキスタン第2の都市、ラホール。ピルワダイのバスターミナルとは打って変わり、Daewooの高速バスターミナルは整然としていた。バスを待つ人の身なりはよく、逆にバックパッカーのみすぼらしい格好は浮いてしまうほど。バスに乗る前にはセキュリティチェックが入り、いざ乗り込めば豪華な3列シートで、足はしっかり伸ばせるくらいに広々としていて、座り心地は新幹線のグリーン車の上をいく。車内アナウンスには深いエコーが掛かりどこか妖艶さまで感じさせ、無愛想ながらも飲み物と軽食のサービス、きちんと舗装された高速道路と静かな走行音。つい数時間前の悪夢のようなバスとは全く別世界の何かに、僕らは乗っていたのだった。

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定刻通りに出発した高速バスは南の方角にちょうど4時間走って、定刻通りにラホールに着いた。リクシャを捕まえ、リーガル・インターネット・インへと向かった。ここはオールド・フンザ・インで勧められた安宿だ。部屋はボロいが、屋上テラスの洗濯機や台所は自由に使えるし、贅沢は言えない。さっそく洗濯機を回すと、洗浄工程の途中でピタリと動作が停まった。同じ宿に泊まっているドイツ系のシリア人が「停電だ」と教えてくれた。大都市であるラホールは、電気の供給が全く追いつかず、地区毎の計画的な停電があるとのこと。「次に電気が来るのは1時間後だね」達観した表情で彼は言った。ラホールは、あれだけ涼しかったフンザとは同じ国と思えないくらい、暑い。電気が停まるということは、エアコンはもちろん、扇風機すら停まるということだ。水シャワーを浴びて暑気を払い、宿の屋上でただただ佇む。疲れと睡眠不足で遠くなる意識のなか、電気が生きている隣の地区からお祈りを呼びかけるアザーンがいくつも重なって聞こえ、それが終わると、また何ごともなかったのかのように蒸し暑い静寂が訪れた。

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電気の復活を待って洗濯を終え、リクシャに乗り、城壁に囲まれたラホールの旧市街に出かけた。ここは、中央アジアから山を越えて侵入したトルコ系民族によるムガル帝国の都であり、ゴミゴミとした街には歴史が深く刻まれている。街の中に無数にあるモスクは、赤茶色を基調とした細やかな造形が美しい。モスクの周囲を取り囲むバザールは人が混み合い、細い路地が迷路のように入り組んでいる。西からやって来たイスラム文化は、ヒンドゥーと出会い、融け合い、この混沌の街を作り上げたのだ。

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ラホール旧市街の端に堂々と聳えるバードシャーヒー・モスクは、ムガル帝国の皇帝により建設され、インド・パキスタンで最も巨大で最も重要なモスクの一つである。休日のためか人で溢れかえっていた。バードシャーヒー・モスクの前に座り、ジュースを飲みながら休憩していると、イスラム圏でよくありがちなように、好奇心旺盛な人たちに囲まれる。写真を一緒に撮れや撮れやの大騒ぎで、「何処から来た」、「日本か、日本は最高だな」、「パキスタンは好きか?」などなどの質問攻めに合う。最初はまともに対応していても、僕らを囲む人垣はみるみるうちに増え、それが30人くらいになり、さすがに収集がつかなくなって理由を付けて逃げ出すことにした。リクシャを捕まえて宿に戻ると、日はすっかり沈む時間。屋上にいると、まもなく計画停電が再びやって来て照明が落ちた。真っ暗な中、突然遠くから響くアザーンが僕らを街を包み込むのだった。

フンザ、その4。その最後を飾る両替と過酷なる復路。

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この日をフンザ最終日に決めた。明朝のバスでラワルピンディに戻ることにした。ギルギットから飛行機という手段もあるのだが、パキスタン航空はネット経由で購入できないし、チケットを扱っている旅行代理店はカリマバードにはなく、チケットを買うためにわざわざ3時間かけてギルギットまで行かねばならない。しかも、1日2便のラワルピンディ行きは、少しでも雲が出れば欠航するので、乗れる保証もない。結果的には、ホッパーに行った午後から厚い雲に覆われてきたので、バスを選んで正解だったと信じている。宿の親父は、この時期は天気が悪いことが多いから、飛行機に乗るなら6月だよと教えてくれた。

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宿代を払うため、手持ちの米ドルをパキスタン・ルピーに替えなければ。カリマバードは旅行者がそこそこ多い街のはずだが、両替所は致命的に少ない。金曜日だったせいで村唯一の銀行はお休みで、もう一軒の両替所に行くと、兄ちゃんが暇そうに座っていた。「ボスがいないと両替できないから、昼にまた来い」と言われる。昼過ぎに覗いてみると、同じ兄ちゃんが相変わらず暇そうに椅子に座っているだけ。今から連絡してやるから待っていろと言って電話をかけて、「16時にもう一度来い」と言った。おい、お前は、何・の・た・め・に・そ・こ・に・い・る・の・だ。両替するのも1日がかり。焦るな。焦るな。不安と伴に16時に三度目の来店を果たすと、ちょうど店の前に車が停まっていて、ようやく登場したボスに両替してもらうことができて、無事宿代の確保に成功。

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両替を終えて、厚い雲の向こうに日が沈みゆくのを感じながら、部屋の前の椅子に座り、トマス・ピンチョンの分厚い本を読んでいるとブブルがやって来たので無駄に重いそれを横に置く。ブブルは、植えたばかりのサクランボやイチゴの苗の周りの雑草を抜いて、実がなるまでにはあと2~3年はかかるだろうねと言った。地元の高校を卒業した彼は、大学が決まるまでの間の休暇中で、数カ月後には街を出てイスラマバードかギルギットの大学に行くことになるらしい。僕が「でも、この街がBest Placeだと思うよ」と言うと笑顔で頷いていたから、きっといつか戻ってくるのだろう。彼ならいいガイドになれるはずだ。見慣れたはずの景色も一段と美しく映える最終日。結局のところ、両替と散歩と読書しかしていない。それでいいのだ。

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さて、朝早く宿の親父の車でアーリアバードまで送ってもらうとNATCOのバスが待っていた。これからの行程を思うと、何ともふてぶてしく見えてくる。別におもしろくもなんともないけれど、同じルートを辿る旅人も多いと思うので、当時のメモを基に時間だけを記しておきたい。7時15分、アーリアバード出発。10時前ギルギットを過ぎたところで検問。14時、チラースで昼食の休憩。この辺りで通り雨。15時45分、検問。18時30分、ダスーで休憩。その後、さらに検問を2、3箇所通過。日が暮れ、22時ベシャームで休憩。屋台でチキンスープを食す。そして翌朝6時20分、ラワルピンディのバスターミナル。でも、身も心も解放され、吐き溜まりのようなこんなバスターミナルでも、少しだけ優しい気持ちになれたのだった。だが、そのときの写真は無い。なぜなら撮る気力すら無かったのだから。でもこれは往路よりも2時間も早い、それでも、23時間、それは過酷なる道のり。

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