ナブルス。あの壁の向こう側へ。

エルサレムからパレスチナ自治区へと向かうセルビスは、旧市街のダマスカス門に程近い「アラブバス」と呼ばれるターミナルに停まっている。暇を持て余していたいくつものセルビスの中から、僕はラマッラーに行く車に乗り込んだ。車中には2、3人の乗客が座っていただけだったが、やがて席が埋まり、セルビスは走りだす。エルサレムの都会的な街並みから、突如として視界から建物が消え、目の前には、荒れ果てた野に聳えた巨大な灰色の壁が迫ってきた。その壁は、イスラエルが支配する地域と、パレスチナ自治政府の影響を与える地域とを隔て、双方の人と物との行き来を堰き止めているのだ。僕の乗ったセルビスは、壁をぐるりと回り込むようにして走り、ようやく見つけた門を抜け、外の世界へと飛び出してゆく。ここはカランディアの検問所。この壁のあちら側、すなわちパレスチナ自治区に車が入ったのを確認して、僕は窓から身を乗り出した。イスラエル側で見た無機質な灰色のコンクリートは、こちらでは格好のキャンパスであり、アラファトやバルガウティら、政治的象徴の肖像画やメッセージが、鮮やかな色彩で描かれている。

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ここはパレスチナ自治区。パスポートチェックを経ずに至る全く別の文化圏。走る車窓から眺め見る看板からはヘブライ語が見事に消え、アラビア語ばかりが目に付くようになる。僕を乗せたセルビスはラマッラーの空き地で停まった。僕は、運転手にナブルスに行きたい旨を告げると、彼は横に停まっているセルビスを指差した。乗り込んだセルビスは空席が目立っていたが、やがて次々と席が埋まり、満席になると出発した。ラマッラーの大きな街を抜ければ、車窓から見る風景は中東独特の荒地に変わる。セルビスは、幹線道路を走り、所々小さな集落を越えてゆく。道中、イスラエル軍の嫌がらせのような検問があるとも聞いていたが、幸運にも僕が乗ったセルビスはそのようなトラブルに出会うことはなかった。ラマッラーから約1時間、大きな街に辿り着く。ここが目的地のナブルス。パレスチナ自治区北部の街。

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ナブルスの街は背後に山が迫り、モスクを囲むスークは小ぢんまりとしているが、まるでシリアのアレッポを思わせる落ち着いた中世の旧市街の魅力に溢れていた。適当なホテルに腰を落ち着け、街をぐるりと歩いて回る。街をゆく人々は、珍しい異国人の僕を見つけると、ここぞとばかり話しかけてきてくれるのだが、ここでは英語すらほとんど通じないのがもどかしい。彼らは心からの善意で煙草を差し出し、僕はそれを断り切れず、慣れない煙に喉を痛める。

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ナブルスの近くには、パレスチナで最大の難民キャンプである、バラータ難民キャンプがある。旧市街からは車で10分ほど。「キャンプ」と呼ばれているものの、この場所にできてから数十年の時が経つため、外見は普通の街と大差はない。しかし、最近でも、イスラエル軍の攻撃を何度も受け、多くの人が亡くなっている。タクシーを降り難民キャンプを少し歩いた。華やかなナブルスの中心部に比べ、貧しさが目立つ。ただ、人々の目は優しく、一緒にチャイを飲んで談笑すれば、両手いっぱいのお菓子を握らされる。その一方で、僕はあくまで他所者であり、明らかな警戒感を隠さない住民も少なくはなかった。

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バラータの街をぐるりと歩いて大通りまで戻る。途中でお金をせびってくる子供がしつこくまとわり付きだしたので、目についた大きなカソリックの教会に飛び込んだ。子供は、僕が教会に入るのを見て諦めたらしい。教会の敷地では打って変わって静寂が訪れた。クリスマスが近いにも関わらず全く人の気配がしない教会で、大きな建造物を眺めながら歩いていると、扉が少し開き、若いシスターが顔を出した。「早く中に入りなさい。警察が来たわ」。僕は慌てて、その半開きの扉の中に身体を潜り込ませた。彼女は静かに扉を閉める。「何が起こったの?」と聞くと、彼女は、少し苦笑しながら、「ここではいつも『何かが』起こっているのよ」と言った。とりあえず建物の中に入れば安心していいようだ。折角なので、シスターに教会の中を案内してもらう。難民キャンプに気を取られるあまり、ほとんど意識はしていなかったが、ここはイエス・キリストが水を飲んだという「ヤコブの井戸」を祀る、由緒正しい教会だった。「ヤコブの井戸」は祭壇の裏側にあり、今なお綺麗な水を湛えていた。シスターの勧めで少し口に含む。ひんやりと冷たく、柔らかな水の味がする。

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シスターに広い教会の中を案内してもらい、僕はその御礼の意味も込めてお土産を買った。彼女は僕に「真っ直ぐ帰りなさい」と言った。もう少しバラータを歩いてもよかったが、地元の人の忠告には素直に従っておいた方がいいだろう。教会のすぐ前でタクシーを捕まえ、ナブルスの旧市街へと戻ることにした。2度のインティファーダや、その間のイスラエル軍の攻撃。絶えず人と人がぶつかり合うこの場所で、両者に比べて圧倒的なマイノリティであるキリスト教徒が、聖書に縁のある井戸をずっと守り続けているのは、どれだけ過酷なことだったのだろう。

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夜、僕はナブルスの旧市街にある古いハマム(アラブ式の銭湯)に向かった。寒い冬の中東の旅では貴重なハマム。日本の下町にはしなびた銭湯があるように、アラブの下町には渋いハマムがある。思えば、この旅のアンマンやエルサレムの安宿ではお湯の出が怪しかったので、ゆっくり埃を落とすのは本当に久しぶりのことだった。熱々の蒸気に身体をほぐしながら、地元の若者と裸で語り合うのが何よりの醍醐味。綺麗な服に着替え、ハマムの温かな休憩場で、今日出会った人たちの笑顔を思い出し、一人ぼんやりと熱いチャイを啜っていた。

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エルサレム、その3。暗闇の教会、膝の上の猫と近づくクリスマス。

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この街には、さらにもう一つ別の世界が重なり合って存在している。それは、神殿の丘と嘆きの壁のある一角から見ると、ちょうど旧市街の反対側に当たる。イエス・キリストが十字架に磔になったゴルゴダの丘と、それを祀った聖墳墓教会である。神殿の丘の前に広がるムスリム街から東側へと緩やかな坂道を登って歩けば、周りの建物は徐々に小綺麗さを増していき、ヨーロッパ風味のオープンカフェなどの洒落の効いた店がやたらと目に付くようになる。キリスト教徒にとって最も重要な場所である聖墳墓教会は、仰々しい目印も無ければ、厳しい身体検査もなく、その入口は非常にわかりにくい。外側から見る限りは、何の変哲もない地味な建造物でしかない。この複雑に文化が折り重なる街にあって、彼らは敢えてその存在感を消しているのではないかと思う。

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しかし、聖墳墓教会の建物の中に足を踏み入れると雰囲気は一変した。教会の入口を潜ったすぐ奥には鮮やかな色彩の壁画が飾られていて、すぐ目の前の床には、十字架から降ろされたキリストの遺体が乗せられたと言われる板状の石が置かれている。その石の上には、いつも誰か熱心な信者が跪いて祈りを捧げていた。さらに薄暗い通路を奥へと進んでいくと、教会の中心にあるのはイエス・キリストの墓であり、巨大な立方体の前に巡礼者が列をなしている。外は雲一つない青空で眩しい冬の太陽がギラギラと輝いているはずだが、光が届かないこの建物の中では、巨大な墓の陰影はより重厚さを帯びていた。キリストの墓のある部屋の周囲には、天井の低い小部屋がいくつもあって、それぞれデザインの異なる祭壇が祀られている。この教会の中で、祭壇がいくつも細分化されているのは、宗派ごとの微妙な関係を暗に示している。湿っぽく薄暗い教会の中を歩き回れば、偶像崇拝を厳格に禁じる先の2つの世界観と異なり、この艶やかさは密教的に思えた。歴史と政治の荒波に翻弄される中、彼らはひっそりと身を隠すように陰々鬱々と祈り続けてきたのかもしれない。建物の外に一歩出れば、日の光の無垢な眩しさにしばし立ち止まる。

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エルサレムの旧市街は、さらにアルメニア人地区を経て、街全体を囲う分厚い城壁の外に出ると、巡礼の道はシオンの丘へと続いていた。単なる限られた一地域を示す名前だったその言葉は、イスラエル建国に至る基になった社会思想である「シオニズム」の語源になり、一方で、その精神はラスタファリに模倣され「ザイオン」という道標にもなった。現在のシオンの丘は、ユダヤ教徒にとっての聖者であり王であるダビデを祀るの墓の隣に、イエス・キリストを受胎した聖母マリアを祀る教会があり、観光バスは駐車場にずらりと並んで停車して、世界中からやって来たの巡礼者が祈りを終えるのを待っていた。

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再び城壁が囲う旧市街の中へと戻り、嘆きの壁と岩のドームが見渡せる場所に向かった。クリスマスが近付くこの時期、エルサレムの人々が忙しく行き交う様子を一人で眺めていると、黒猫がじっとこちらを見つめているのに気付いた。視線が合うと、彼女はこちらに静かに歩いてやって来て、僕の膝の上に飛び乗った。生命の重みと温かみをずしりと膝の上に感じる。彼女は頭を僕の股間に埋めて動く気配はなく、僕は、居座る黒猫の背中を撫でながら、変わりゆく空の色を眺めていた。しばらくすれば日は沈み、腹は減って空気は冷えていく。そろそろ宿に戻ろうかと思ったけれど、黒猫は僕の膝の上から動くつもりはないらしい。仕方がないので、無理やり彼女を持ち上げてみると必死に抵抗し、僕の手に爪を立て指に噛み付いた。あまりの痛さに手を離せば、彼女は再び僕の膝の上に落ち着いて丸くなる。やれやれと諦め、僕はやたらと毛並みのいい背中を撫でるしかない。野良猫も、人肌が恋しくなる季節なのだ。気が付けば日は完全に沈み、周りの建物には灯りが点ったけれど、彼女は断固として僕の膝の上から動くことはなく、僕ができるのは、彼女の立てる小さく規則的な寝息を聞くことだけだった。

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