ベツレヘム、その2。分断する壁、投げつける花束。

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翌日、自然と朝早く目が覚めた。空はようやく白み始めたころ、ピリリと冷たい空気の旧市街を散歩する。しばらく歩いたところで淹れたての温かいコーヒーを路上で買い、熱いそれをちびちびと飲みながら地図を見ると、どうやら、あの「壁」の近くまで来ているようだ。旧市街を出て、車が行き交う大きな道をどんどん歩いて行くと、巨大な灰色の壁が聳え立っているのが見えた。その灰色に近寄ってみれば、それはキャンバスとなり、華やかな芸術祭りが催されている。

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灰色の壁は、「アパルトヘイト・ウォール」とも呼ばれ、パレスチナ自治区とイスラエル占領地とを分け隔て、人と物の自由な往来を妨げる役割を担っている。第1次中東戦争の停戦ラインよりも明確にパレスチナ自治区側に喰い込んで建設されているので、イスラエルの占領地を不当に広げていることは周知の事実である。一方、パレスチナ側の文化的な抵抗運動にとっては、この壁は格好の素材だった。さまざまなアーティストがここを訪れ、灰色の壁に作品を残しては去って行った。緻密で美しい壁画が、ただの醜悪な落書きに上書きされていたりもするけれど、そんなことは作者にとっては織り込み済みだったろうと思う。キャンバスは誰しもにとって開かれた存在であり、綺麗に保存されていないからこそ帯びる美しさというものもある。

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壁のグラフィティを見ながら歩いていると、壁のすぐ対面に「Banksy’s shop」という名の小さな店を見つけた。店の軒先に描かれた絵の中の男は壁に向かって花束を投げつけているように見える。まだ開店準備の最中だったが、若い兄ちゃんが温かく迎えてくれる。「この店には何があるの?」と聞くと、「Everything!」という答えが返ってきた。Banksyの作品をあしらったTシャツやパーカー、ステッカーからキャンドルまでが並べられている。正直言うと、どれも品質は高くはない。おそらく地元で勝手に作られたものがほとんどだろうが、Banksyの活動はそれを是とするはずだ。金儲けだけが著作権の目的ではないのだから。気に入ったTシャツと、パレスチナ自治区の障害者が作っているという立派なキャンドルを買った。

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てっきり、Banksyの作品は全てこの壁に描かれているものだと思っていたが、必ずしもそうではなく、この街に点在しているらしい。店の兄ちゃんに、「じゃあ、女の子が風船に掴まって壁を越えようとしているグラフィティはどこ?」と聞くと、なんだそんなことも知らないのかと言うようにニヤリと笑みを浮かべ、店の前の壁を指差した。他の落書きに埋もれてしまっているし、想像していたよりも小さい女の子だったが、その存在感は特別なものがある。じっと眺めていると、風船を握り締めた女の子が目指しているのは、単に壁の向こう側ではなく、抑圧のない別の世界であるようにも思えてくる。

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最も有名な壁画の一つは、ベツレヘムの中心部から少し離れた、ベイトサフールという街にある。ベツレヘムのバスターミナルに歩いて戻り、運転手にBanksyの壁画を見に行きたいと告げると、乗るべき車を教えてくれた。バスがターミナルを出発すると、10分くらいで降ろされた。そこは何の変哲もない長閑な街並みで、ふと振り返ると、小さな車の整備工場の壁に、巨大なあの絵が描かれていた。男が投げつけようとしているのは、爆弾でも火炎瓶でもなく、鮮やかな花束。穏やかな冬の日差しの中、遠くから近くから眺めた。壁画のある工場に入ろうと思い、その場にいた親父に許可を求めると、旅行者が来るのに慣れているようで、好きにすればいいというように肩を竦めた。

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夕方、点在するBanksyの他の壁画を見ながら、再び壁に向かった。大通りから壁に向かって西へと歩くと、アイーダ難民キャンプがある。ここでは、ベツレヘム中心部の観光都市の雰囲気は微塵も感じない。壁には、人々の怒りが爆発した跡が生々しく残っている。この跡は、 僕がいた当時1年も経っていないものだったらしい。どんなグラフィティよりも直接的な表現であるのと同時に、どれだけの血が流れたのか、ふと頭をよぎる。

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さらに、イスラエル占領地に通じるチェックポイントまで壁伝いに歩いた。平日の夕方、人の往来が多くて混雑する時間。長い列をなしていた車の間をすり抜ける。壁の隙間を行き来しようとしている車からは苛立ちを感じることはなく、ごく日常的な風景に見えた。列をなした車には新聞や飲み物を売る人々が集まっているし、徒歩で壁を越えるチェックポイントの前は、即席の市場となって出店が並んでいる。人々はたくましく、ただで転ぶ訳はないのだった。

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この道の先に続くエルサレムの旧市街。この壁の向こう側に、つい数日前確かに僕はいた。それはほんの数キロの距離だけれど、今ではその何百倍もの距離を感じている。そして、さまざまな抵抗の手段がここにはある。僕は、壁に投げつけるものは花束であって欲しいしと願うし、投げられた花束は僕らが受け止めなくてはならない。その花束はいつかこの壁を穿つと信じる。

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ベツレヘム、その1。クリスマスの余韻は調子外れのアラブ歌謡に乗せて。

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短い滞在だったジェニンに別れを告げ、セルビスに乗り込んだ。来た道を戻って2時間ほどで、大都市ラマッラに着き、ベツレヘム行きのセルビスに乗り換える。パレスチナ北部の中心都市であるラマッラと、南部の中心都市であるベツレヘム。直線距離では僅か20kmのこの2つの街は、カランディラの検問を境として完全に分断されている。悪名高いその検問所を越えることは現地の人々にとって容易ではない。ラマッラとベツレヘムとの間を結ぶセルビスは、大きく西側に迂回して走ることになる。ラマッラを発った満員のセルビスは、幹線道路から険しい山道に入り、住宅街の細い通路を抜け、2時間ほどを要してベツレヘムに至った。この小さな国の中で、今も、人は自由に移動すらできないでいる。

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ベツレヘムの街はイエス・キリストが誕生したことで知られ、世界中から多くのクリスチャンが集まる一大観光都市だ。僕が訪れたのはクリスマスを数日過ぎたころだったが、街の中心となる旧市街は休暇中の欧米人の旅行者で賑わっていた。混雑を見越して事前に予約していた旧市街の外れの小綺麗なユースホステルは、まだクリスマス特別価格を請求されて割高だったが、エルサレムほどのぼったくり感はなく、居心地よく過ごすことができた。

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ベツレヘムは坂の街でもある。薄茶色に統一された建物が集まる旧市街で、階段を昇ったり降りたりしながら、僕はいつのもようにふらふらと彷徨うのだった。迷路のように建物が並んだ小道を抜け、ふと見晴らしのよい場所に出れば、冬の美しく澄んだ空を背景に、さまざまな宗派の教会やモスクから、個性的な造形の塔がいくつも伸びている。気が付くと街の中心にあるメンジャー広場に戻っていた。キリストが産まれた場所に建てられた生誕教会は、夕闇が迫る頃になっても観光客で混雑している。広場の真向かいには、街で一番大きくて古いモスクがアザーンを鳴り響かせていて、こちらも礼拝者で賑わっている。その逆側には、ド派手なクリスマスツリーが飾られていて、隣に用意された特設ステージでは、どこかの歌手が、アラブ風の歌謡曲を歌っている。まるで浅い夢のように、目の前の世界は断片的で支離滅裂だ。

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日が沈むと、空気が急に冷え込む。濃くて熱いアラブコーヒーを買ってちびちびと飲みながら、歌謡曲のステージをぼんやりと眺めていると、土産物売りの少年がやってきた。穏やかな目をした彼は、しつこく売り込むつもりは無さそうだったので、僕らは少し世間話をする。パレスチナ人の彼は、自分はクリスチャンだと言った。「この街では宗教が違っても皆仲良くやっているんだ。神様はみんなのものだから」そんな言葉は、コーヒーよりも、心と体を温めてくれた。まだまだ夜はこれから。街は少し浮かれた気分で、クリスマスの余韻を楽しんでいる。

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