キングフセインブリッジ。世界で最も困難な橋を渡れば、聖地へと続く道が開く。

携帯電話への未練を断ち切って、早朝に宿を発った。アンマンから、パレスチナ自治区との国境に向かうバスは、ムジャンマ・シャマーリーという郊外のターミナルを拠点としている。宿の前で捕まえたタクシーは、ポンコツの極みのような車体のくせに、運転する親爺が国境まで乗って行けとしつこい。ボラれるのが目に見えていたので、がたがたと激しく揺れる車内で無視し続けていると、突然車のエンジンが止まり、親爺が焦り出した。単なるガス欠である。ちょうど急な下り坂に差し掛かっていたので、ポンコツタクシーはしばしゆっくり滑降したのち、片側4車線もある大きなバイパスに入ったところで完全にその動きを止めた。後ろから猛スピードでやってきた車が、けたたましいクラクションを鳴らして追い越していく。この親爺はどの口で国境まで乗って行かないかと言っていたのだ。インシャラー。

大都会アンマンのバイパスのど真ん中、車はガス欠では動かないことを理解したポンコツ親爺は別のタクシーを捕まえようと必死。幸運にも1台の空車のタクシーが止まり(ポンコツよりもずっといい車だ。)、親爺と僕を乗せて、目的のバスターミナルに連れて行ってくれた。タクシー2台分だからと言って当たり前の顔で2重の料金を請求してくる親爺に対し、その半額だけを新しい運転手に手渡して、僕は颯爽と無数のバスが待機するターミナルへと向かう。キングフセインブリッジに行く乗り合いバスはすぐに見つかった。バスと言っても、車は普通の乗用車の大きさ。狭い後部座席の真ん中に座らされ、両脇を屈強な女性で固められ、身動きを取ることすら容易ではない状況で出発する。アンマンの大渋滞を抜け、車が流れだすと、禿山をどんどん下って行く。次第に周囲に緑が増えてきて、太陽もギラつき出す。ここは世界で最も標高が低いヨルダン渓谷の底。アンマンから一気に1000m以上を下ったことで、国境に着いたときには、季節が突然夏に変わったようだった。

キングフセインブリッジを渡ってヨルダン川を越えれば、そこはパレスチナ自治区だが、この国境越えは、世界でも有数の困難さを誇る。イスラエル兵から受ける嫌がらせや、、数時間以上の待ちぼうけや、ここを巡る苦労話はバックパッカーの定番ネタだ。この日、一緒に国境を越えた欧米人は、実は前日にも国境に来ていて、入国審査で6時間待たされた挙句、閉店時間だからと一方的にヨルダン側に追い返されたらしい。僕のパスポートには、シリアやイランやパキスタンなど敵国のスタンプがこれでもかと捺されているので、簡単に行くとはどうしても思えなかった。緊張感が高まる。

あっさりとしたヨルダンの出国手続きを終え、イスラエル側に向かうと、入国審査の建物に入るための長蛇の列ができていた。最初は整然と構築されていた列は次第に崩れ、混沌に変わってゆく。エントロピーの増大を率先するのは中国人のお姉さんで、気弱そうなアラブ系の係員に早口で詰め寄って、僕の前に強引に割り込みながら「この後は私のフレンドよ」と言って10人くらいの団体を放り込んできたので、逆に思いっ切り睨み付けて割り込めないように身体を前に入れた。この長蛇の原因となっているのは極簡単なパスポートチェックなのだが、いらつく旅人をよそ目に、軍服に身を包んだ若いユダヤ系の女の子が、つまらなそうにパスポートのページをパラパラとめくっている。きっと兵役中だろうが、好きでこんなことをやっているわけではないことを全身且つ全力で表現していた。ようやく建物の中に入ることを許され、ここからが入国審査の本番だ。窓口にいたのは中年の男性で、ドキドキしながら差し出したパスポートを受け取って、無表情のまま質問をぶつけてきた。「イスラエルでは何処へ?」「ホテルは?」「目的は?」「日本での仕事は?」そして、パラパラと僕のパスポートのページをめくり、眉をしかめて、「シリアは何をしに行った?」「イランは?」「パキスタンは?」最後に、もう一度日本での仕事を確認され、A4の申請書を差し出し、名前を呼ぶまでそのへんで待ってろと、彼は吐き捨てるように言う。

ここからが噂の、いつ終わるのかわからない待ち地獄。記入した申請書を持って、中国人の団体客やムスリムの家族連れが通って行くのをぼんやりと眺めていた。1時間くらいたっただろうか、遠くの方で僕の名前を呼んでいる声が聞こえる。慌てて駆け寄ると、制服に身を包んだ女性がニッコリと微笑んでいる。「あなたのラストネームはどうやって発音するの?イドってユダヤ系の名前みたいね」と言って、パスポートとIDカードを渡された。「行っていいわよ」なんと、ほんの1時間で解放されたのだ。真の地獄を覚悟していただけに拍子抜けだったが、ありがたいことには変わりない。ユダヤ系に似た名前のせいか、そんな阿呆な。荷物を受け取り建物を出ると、待っていたセルビスに乗り込んだ。この道を走れば、そこは聖地、エルサレム。

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アンマン、その2。買ったばかりの携帯電話よ、遠い異国の地でさようなら。

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シュワルマ(中東風のロール式サンドイッチ)で簡単にお昼ご飯を済ませ、またアンマンの下町散歩に出かけた。巨大なローマ劇場が目印のハシミテ広場には、真冬に貴重な暖かい日差しがたっぷりと降り注いでいる。不景気で仕事がないのか単なる暇な学生かブラブラと過ごす若者や、小さな子供を連れた家族連れで賑わっていた。日当たりの良いベンチを見つけて腰をかけ、鞄の中から小説を取り出して読んでいると、突然見知らぬ親父が声をかけてきた。全身黒尽くめの服で、耳元に小さくTとAとZの文字が入った黒い帽子をかぶった彼は、おもむろにピーナッツと煙草を差し出した。小腹が空いてきたので、ピーナッツだけを遠慮なくいただく。

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彼は、訛りの強い英語で機関銃のようにいきなり語り出した。パレスチナのガザ出身で、ときに下町の哲学者、ときにドキュメンタリー映画の俳優、ときに高名な音楽家と自称する。いいか、お前とわしはthinkingが全く違う。しかしfeelingは一緒なんだ。わしらは新しい世界を創造する。銃に頼るのではない、精神的な革命によって。「じゃあ、具体的にどんなアクションを起こせばいい?」なあ、日本の若者よ、この世界は貧富の差が大きいだろう。富を得た連中は心を持っていない。奴らはまるで動物のようだ。人の心を持った我らがこいつらを処分しないとなと、銃を使わない革命を目指す男とは思えない発言をするので、僕はピーナッツを喉に詰まらせる。

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かれこれ2時間ほど謎の問答を繰り返しただろうか。そろそろ行こうかと別れを告げると、旅の無事を祈ってくれた。次来たときには家に招待するからと、固い握手を交わす。この広場から丘に続く急な坂道を登ると、頂上にはローマ帝国時代に建てられた神殿の跡が残っている。なんとか頂上にたどり着いた頃には夕日が街全体を柔らかく包み込んでいた。当時は、ここから、こんなに多くの建造物は見えなかっただろうけど、沈みゆく太陽の光の色だけは2000年前からそんなには変わっていないだろう。

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夕日をひとしきり楽しんだあとで、ゆっくりと丘を下り、一旦宿に戻って少し休んで宿を出て、夜の街に繰り出し美味しい夕飯を食べ、人混みのスークを歩き、チャイを飲んで宿に戻ってきた。ふとメールでも確認しようかと思って携帯電話を探したが、ない。鞄の中を探しても、ポケットの中を探しても、買ったばかりのiPhone 5がどこにもなかった。そう、買ったばかりのiPhone 5は、この時点で完全に僕の元から去ってしまっていたのだ。買ったばかりのiPhone 5、ちょうど1ヶ月前に買ったばかりの、それが。

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慌てて食堂やチャイハネに走って戻り、店員に聞いてみたが、誰も彼もが首を振る。最後に記憶があるのは、夕飯に出かける前に宿でiPhoneを取り出し、宿のwi-fiが機能しないことを確認したとき。その後、もしかしたら仕事の電話がかかってくるかもしれないと思い、普段なら鞄の奥底に入れるものを、ズボンのポケットに入れたまま出かけた。夕飯の後で、人が混み合うスークで嬉しそうに立ち止まって写真を撮っていたとき、後ろから人にぶつかられたような気もする。そのときは迷惑だったなと反省したが、今から思い返すと、そのときにズボンのポケットからスられた可能性が一番高い。そんなことを必死に考えながら最後に立ち寄ったチャイハネでは、心配してくれた親父と客が、彼らの電話で僕の番号を呼び出してくれたものの繋がる気配はない。慰めで奢ってもらったチャイはほのかに涙の味がした。宿にトボトボと歩いて帰る途中、見つけたネットカフェで携帯会社のサイトにアクセスして、とりあえず利用停止の手続きをする。まあ、便利な世の中になったものだ。

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宿に戻ってスタッフに相談すると、知り合いの警察官に盗難証明書を取得できるように仲介してくれるということだった。次の日の朝から、念願のエルサレムに向かう予定で、余計な足止めをされたくなかったので、帰国の前にこのホテルに戻って警察に連れて行ってもらうことにした。中東を旅していると、本当に人の優しさが嬉しくて泣けてくる。アンマンのダウンタウンにはショーウィンドウにスマートフォンがたくさん並んでいる小さな商店をたくさん見かけた。きっと、その中のどれかは盗まれ転売され流れ着いた僕のiPhone 5で、たまたま通りかかった髭の濃い親父が満面の笑みでそれを手に取る姿が目に浮かぶ。慣れない手つきで人差し指をスライドさせたりして、盗品であることなんか思いもよらない彼は、家族の笑顔を思い浮かべながら大事そうにそれをレジまで持って行く。僕のiPhone 5は、僕自身より先に、この生きる街の一部になったのだ。そう思うと気がちょっと楽になったりとか、そんなことあるかコラ。

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アンマン、その1。旅人は、必ずこの街から聖地を目指すものと思っていた。

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エルサレムとパレスチナは、旅人としての半生で、心の底から旅したい場所の一つであったのだけれど、物価は高いし、政情は不安定だしと、何かと理由をつけて後回しにしてきた。暇を持て余せた学生時代の貧乏長期旅行から、社会人バックパッカーとしての限られた休暇を利用した旅行へと、生活の変化に合わせながら色々なところに出かけて来たわけだが、ようやくここを目的地に決めた。いつ頃からか、なんとなく、この旅が一つの区切りになるような気もしていたのだけど。

エルサレムに至る道を決めるとき、イスラエルのテルアビブではなく、ヨルダンのアンマンを経由するのはバックパッカーの常道である。しかし、それは既に過去のものになったことを、この旅の途中で知った。アンマンから、ヨルダン川に架かるキングフセインブリッジを渡り、パレスチナの自治区を横切ってエルサレムを目指すというこのルート。キングフセインブリッジの国境は、パスポートにイスラエルの入国スタンプを捺されない唯一の場所だった。イスラエルの存在を認めない国々では、イスラエル入国の形跡があるとその国の入国を拒否されるため、あらゆる土地を渡り歩こうとするバックパッカーは、必ずこの国境を通らなければならない。少なくとも僕が若い頃はそうだった。実は、最近、イスラエルの入国は全てIDカード式に変わり、どこから入ってもイスラエル入国スタンプが捺されることはなくなった(隣国の出国スタンプでイスラエル入国が疑われる場合は当然今でもあり得る)、らしい。

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キングフセインブリッジでは、イスラエル入国スタンプは、パスポート本体ではない「別紙」に捺される。しかし、たまに嫌がらせでパスポート本体にスタンプを捺されるから入国審査官のご機嫌を損ねないように気を遣えとか、その「別紙」をパスポートに貼り付けるための「糊」が強力で、これを綺麗に剥がさないと、残った「糊」の跡でイスラエル入国がばれるとか、中東を巡るバックパッカーが命を賭けた駆け引きは、もう既に昔話になってしまった。そんなことを夢にも思わないこのおじさんバックパッカーは、当然のようにアンマン行きの航空券を購入したし、イスラエル入国に向け、無駄に緊張感を高めていた。

仕事はいい感じに溜まっていたけれど、やって来た出発の日。洗濯物は生乾き、少し湿ったまま服を無理矢理バックパックに詰め、関空からフランクフルトに向かう飛行機に乗り込んだ。買ってから開く暇もなかったLonely Planetを機内でじっくりと眺め、旅の感覚を徐々に取り戻していく。十数時間のフライトのあと、フランクフルトの殺風景な空港で巨大なジョッキに入ったビールを2杯一気に飲んだ。その後で強烈な眠気にやられ、適当な椅子でうたた寝すれば、気が付いたときにはとっくに搭乗時刻が過ぎている。大慌てで乗り込んだ飛行機で、さらに数時間、ヨルダンの首都アンマンに着いたのは、現地時刻で真夜中の1時が過ぎていた。予約していた安宿のお迎えは、イスタンブール経由で来ていた日本人の女の子2人組と一緒だった。空港の建物の外に出ると、驚くほどに空気が冷たく澄んでいて、厚手のダウンジャケットを着込んでいても体温が奪われていくのがわかる。からりと乾いた冬の夜の風が、長旅で疲れた頭を現実世界に引き戻す。深夜のハイウェイ、そして人の気配のないダウンタウンへと車は走る。安宿に到着して、冷たい水で顔を洗って歯を磨き、凍えながら暗いドミトリーのベッドに潜り込んだ。時刻は夜中の3時を過ぎたころ。

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旅の朝は、ちょっとした興奮状態にあるのか、朝早く目覚める。同じドミトリーに泊まっていたドイツ人(パレスチナのボランティアから戻ってきたと言っていた)や、日本の若者と話をしたあとで、ふらっと朝の散歩に出かけた。アンマンは比較的新しい街であり、中東独特の美しい旧市街はない。しかし、いくつも山が連なる場所を無理矢理切り拓いた特異な地形であり、坂道を少し登れば、山と谷を埋め尽くした街の姿が目の前に飛び込んでくる。あちらこちらから鳴り響くアザーンを体全体で浴び、美しい塔が青い空を貫くモスクを眺め、人で溢れかえるスークを歩き、安くて甘ったるいチャイで身体を温め、自分の意識が徐々に街の日常に溶け込んでいく。歩き疲れて宿に戻ると、休むつもりだったベッドの上では、知らない誰かが寝息を立てていたので、思わず微笑んで、下の写真を撮り、そっとそこを後にしたのだった。ここまでの旅は全て順調だったのだが、だがしかし。

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