2010年、イラン、イスファハーン、その1。

激務の日々をなんとか通り過ぎ、無理矢理仕事を片付けてエミレーツで日本を脱出。イランでは酒は一切飲めないので、飛行機の中でワインの飲み貯めをしていたら、酔いが回ってフラフラのまま眠りに落ち、いつの間にかドバイに着いた。すぐにテヘラン行きの便に乗り換える。ペルシャ湾を縦断した後は、ひたすら赤茶けた大地を北へ進み、3時間でテヘランに至る。

テヘランにはあまり興味はないので、空港からタクシーでイスファハーン行きのバスターミナルへ。次のバスがでるまで2時間程あったけれども特にすることもない。

イランは外で食事するところが極端に少ない。外食文化がなく、レストランにいるのは外国人ばかりだった。バスターミナルでもそれは例外ではなく、これだけ人が集まっているのにレストランが無い。唯一購入できる食事らしきものは、ターミナルを周遊しているサンドイッチ屋だが、固いパンに、薄い肉らしき物を挟んだ物体で、あまりありがたいものではなかった。売店で買った豆を齧ったりしながらバスを待つ。

そして、この国の人々は、外国人とみるやすぐに話しかけてくる。どこから来たのか、なぜイランに来たのか、イランは好きか、どの街に行くのか、イスファハーンは素晴らしいぞ、イランをどう思うか、日本ではどんな仕事をしているのか、いつか日本に行きたいです。日常の話、趣味の話、経済の話、政治の話などなど。入れ替わり立ち替わり話しかけてくるが、人それぞれの考えがあるから全く飽きない。豆を齧りながらバスを待っていると、1つ前のバスを待っていたシラーズに向かう若者に話しかけられた。ペルシャ語の会話帳を開いて、わいわいやっているうちに、あっと言う間にバスの時間になった。

テヘランからイスファハーンまではバスで5時間。バスは、日本のものとまではいかないが、そこそこ快適だし(インドと比べたら、それは、まあ圧倒的に!)、道も綺麗に舗装されている。赤茶けた大地を、ひたすら南へ。途中ドライブインで軽く休憩をとるが、例の如く、かちかちの侘しいサンドイッチしかない。

イスファハーンに着いたのは、夜の9時頃。バックパッカーに有名なアミールキャビールホテルに落ち着き、奇跡的に近所にあったレストランで、この日初めて、ようやく、まともな飯をいただく。この後、飽きるほど食べることになるケバブ+ライスだが、味付けは控え目で、いたって素朴で、美味しくいただいた。そのまま疲れた体を引きずり、宿に戻って就寝。

2010年、イラン、前書き。

イスラムという文化は、突然、自分の中で凄く重要な位置を占めるようになった。それがいつのことだったのかは正確には覚えていない。

学生時代にマレーシアを貧乏旅行したときに、真っ赤な夕焼けと共に街中に響き渡るアザーンに心打たれたのかもしれないし、

中学生の夏休み、まだ下町の雑踏が残るシンガポールでホームステイをしたときに、イスラム街に衝撃を受けたのかもしれないし、

中東問題を知る上で抑圧されている民族として、いつの間にか本能に刷り込まれてしまったのかもしれない。

まあ、とにかく、鮮明なのは、2007年にモロッコを旅行して、イスラム文化の素晴らしさに触れたときのことである。夕闇迫るフナ広場に鳴り響くアザーン、壮大なモスクのドームとミナレット、赤茶けた岩だらけの大地で生きる人々、その人々の懐っこさ優しさと敬虔さ。

モロッコへの旅の後、日本に帰って来ても、モスクを訪れ、アラビア語を学ぼうとしたり(ほとんどはかどっておりませんが)、コーランを読んでみたり、東淀川区の焼却場さえも、ついついモダンなモスクに見えてしまうほどである。

いや、この煙突はミナレットそのものでしょう・・・。ああ、淀川沿いに響くアザーン、それはきっと空耳。

そして、2008年→2009年は、モロッコ以来、念願となっていたシリアを旅した。一大観光地となっているモロッコよりも、イスラム圏の人々の生活をリアルに感じた。そして、シリアで出会う日本人は、その多くが一人旅で、アジアからユーラシア大陸横断を目指している人や、世界中を回った果てにこの国に辿りついた人、彼らと旅の話をしていると「イランに行け」と言う。そして、いつの間にか、イランへの憧れが止まらなくなる。

そして、2010年のゴールデンウィーク、休みを少しだけ早くいただいて、ついに憧れのイランを旅したという次第。行ってみた感想を簡単にまとめれば、思ったよりも洗練されていて、危険を感じることはほとんどなく、モスクの巨大さに圧倒され、そして何より人が素晴らしかった。

詳細は、たぶんこの後。

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