エルサレム、その2。乱反射する黄金色の光に包まれながら。

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自然と朝早くに目が覚めた。身体は、まだ旅の始めの興奮から醒めていないらしい。朝の澄んだ空気に包まれ、まだ人通りのない旧市街の細い路地を歩く。開けたばかりの簡素なお店で、アラブ人の親爺が淹れた甘ったるくて温かいチャイで一息ついてから、岩のドームのある神殿の丘に向かった。

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神殿の丘への入り口は何箇所かあるが、非ムスリムの入場が許されるのは、嘆きの壁を通り過ぎたところにある南端のゲート1箇所に限られている。時刻は朝の7時前。既に20人くらいの欧米人が列を作り、ゲートが開かれるのを待っていた。最後尾に並んでしばらく待つ。ようやく列が前に進むと、イスラエル兵が数人待ち構えていて、空港並みの入念な持ち物検査を受ける。観光客の多い昼間は、この検査のお陰でかなりの渋滞が引き起こされるようだった。検査を通過できた者は、細い仮設の通路を上がり神殿の丘に登る。三千年以上の歴史が何重にも積もったこの場所には、真新しい仮設通路は不釣り合いに見えた。新たな通路の確保や、遺跡の発掘という名目があるらしいが、イスラエルの主導で進められる工事にはムスリムの反発も大きいらしい。四方が完全に覆われた通路の隙間から覗いてみると、嘆きの壁に祈る人々をすぐ目の前にするものの、彼らにとってみれば、この細い通路を登っていく今の自分の存在は無に等しいものなのかもしれない。

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神殿の丘に上がり、アルアクサー・モスクを回り込むと、朝日を浴びて黄金色に輝く巨大なドームが目に飛び込んできた。壁面のタイルの青い色は、雲一つ無いエルサレムの冬の空に溶け込み、細かに施された装飾は青い空に浮かぶ無数の星のようだ。岩のドームは、祈りを捧げる場所としてのモスクではなく、ムハンマドが天に昇ったという岩を守るための建造物である。そして残念ながら異教徒は中に入ることは許されない。ムスリムにとって大切な存在である一方で、この岩は旧約聖書の中でアブラハムが息子イサクを神に捧げた場所であり、ユダヤ教徒にとっても縁が深いものであることを知っておかなければならない。僕が岩のドームの周りをゆっくり歩いていたときに、強張った表情の若いユダヤ教徒が1人、岩のドームに向かって頭を垂れていたのを見た。彼は、もしかしたら、その祈りを捧げている岩を一生目にすることはできないかもしれない。それぞれの事情は複雑にこんがらがっている。その一方で、2000年の当時のイスラエルの外相はこの丘に登り、煽られた両者の対立は第2次インティファーダのきっかっけになった。お互いが抱える信仰の充たされなさを、他者に対する敵意にすり替えて爆発させることで、ほくそ笑む奴らがいるのも事実だ。

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乱反射された光に目を細めながら、ドームの周囲をぐるりと回った。ドームの巨大さと、頭と胴体のアンバランスさに自分の遠近感が少しずつ狂わされていく。この時間は観光客もほとんどいない。ネコが数匹、人間同士の込み合った事情なんぞ何処吹く風と飄々とした表情で歩き回っていた。厳粛さよりも長閑な憩いの空間という風情が強いのは、これまで訪れたイスラム教の他の聖地とも共通するかもしれない。ここから見える西側の壁の反対側では、黒服のユダヤ教徒がこの時間も熱心に祈りを捧げているはず。僅か壁一枚を隔てて、別の世界が別の原理で動いていて、それらは決して交わることがなく、永遠に平行に存在し続けるようだった。

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ドームを1周したところで、徐々に人が増えてきた。ツアーの団体客もわらわらと集まってきたので、僕はそそくさと退散することにする。岩のドームと嘆きの壁という2つの聖地の交錯は、あくまでこの土地が抱える問題の象徴でしかない。ムスリム居住区を抜けてホテルに戻る途中、アラブ人の子供たちが遊んでいる道端の上で六芒星の旗がこれみよがしに掲げられている光景が、より問題の本質を表しているような気がした。祈りは今も昔も変わることはない。ただ、頭上の旗が人の心の何かを狂わせていると、僕はそう思っている。

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エルサレム、その1。その重き嘆きの壁を前にして。

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キングフセイン橋を無事に越えた旅人を積んだセルビスは、ヨルダン渓谷を西へと走った。草一本生えない荒地から30分ほどすると、窓から見える景色が徐々に色鮮やかになってくる。遠く見下ろす丘の上には、混み合った建物を背に巨大なドームがどっしりと腰を下ろし、旅人は目的地のエルサレムが近いことを知る。セルビスは、そのまま混沌とした街の中心部へと向かった。狭い道に車や人がひしめき合う中で僕は車を降り、エルサレム旧市街の入口となるダマスカス門から程近いホステルに入る。無愛想な親爺に案内されたのは2段ベッドの上の側。梯子を昇ると建付けが悪くて全体が不気味に揺れ、寝床は寝返りを打つことを躊躇するくらいの幅しかない。そんなドミトリーで1泊約2,800円。クリスマス前のハイシーズンであることを考慮しても、この街の物価の高さは如何ともし難い。失くしたiPhoneが不安だったので、日本の携帯電話会社に馬鹿高い国際電話をかけて通話停止が完了したことを確認し、宿の近くの店の安いシュワルマでようやく空腹を満たときには日は傾きかけたころ。ようやく憧れの旧市街へ歩き出す。

さまざまな文化が交錯するエルサレムの旧市街は、それぞれの民族・宗教ごとに地区がわけられており、ダマスカス門を潜った辺りはムスリム地区とされている。門から旧市街の中心部へは緩やかな坂道を下る。その道は、世界という大きな擂鉢の底に続いているかのようだ。ムスリム地区では、すれ違う人々の顔や服装は中東の他の街と変わりはない。ときおり、髭と揉み上げを長く伸ばし黒い帽子と黒い服に身を包んだユダヤ人が俯き加減で早足で去っていくのを見て、今この特別な場所にいることを思い出すのだった。

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アラブ人と観光客でごった返すスークを抜けると、傾きかけた日を浴びた岩のドームがチラリと見えた。そのまま入ろうとすると、暇そうにしていたアラブ系の兵士が僕を止め、非ムスリムが入れる時間は終わっていると告げられる。片言のアラビア語で話しかけると、彼は凄く喜んでくれた。明日また会おうと握手で別れ、そこからさらに深みに下りていくと、ユダヤ教徒の割合が一気に増える。脇道に入りくねくねとした階段を上がると、突然視界が開けた。金色に輝いているのはイスラム教の第三の聖地である岩のドームだが、そのすぐ外側に位置する壁の前で、ある者は縋り付き、ある者は頭を垂れ、ある者は本を片手に歩き回り、ある者は嬉しそうに記念写真を撮っていた。いわゆる嘆きの壁、この壁のあちら側とこちら側とでは、別の世界が並行して存在しているのだった。逆に考えると、人が拠り所とする価値観なんて、この壁1枚で容易に隔てられてしまうようなヤワなものなのかもしれない。

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かつてここにユダヤの王国があったときの最も重要な神殿は、ローマ帝国によって破壊され、嘆きの壁だけが残ると同時に、彼ら民族の苦難の歴史が始まったと言われる。簡単なボディチェックを抜ければ、誰でもいつでも壁の前に立つことができる。日没後に再び訪れると、ひんやりと澄んだ空気の中、壁はライトアップされ、騒々しい観光客の数は減り、真摯なユダヤ教正統派の人々だけが祈る。壁に向かって左手の奥には、空調が整った礼拝所があって、聞き慣れない言葉の祈りが終わることなく響いている。

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この嘆きの壁は、イスラエルという「国」の象徴として、さまざまなプロパガンダに利用されてきた。しかし、本来のユダヤ教からすれば、イスラエルはメシアが到来して建国されるもので、力ずくで得られるものではないから、イスラエルの存在自体に反対するユダヤ教徒も多いという。彼らは、陽気なアラブ人とは異なり、少し近寄り難い空気を醸し出しているが、メシアの来訪をただ待ちわびて祈り続けているだけだった。

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何日かエルサレムに滞在している中で、僕は、岩のドームと嘆きの壁を見渡せる高台にしばしば訪れた。あるとき、壁の前では”I Love Israel”とプリントされた揃いのTシャツを着た、軍服姿、おそらく徴兵中の若者が数十人大騒ぎしていた。そのすぐ隣で、寡黙な正統派の人々は、彼らをたしなめることもなく、彼らに眉をしかめることもなく、その存在自体を無いものとするように黒い帽子の乗った頭を垂れ続けている。おそらく、この祈りの光景だけは1000年以上変わることはなかっただろうし、つい100年前には至極当然のものとして複数の宗教が融け合っていたはずだった。夕闇迫り、イスラム教の祈りを呼びかけるアザーンが街中に響き、キリスト教会の塔が空を突き、ユダヤ教正統派の人々が家路を急ぐ姿は、その頃のことを想起させるように長閑だった。パレスチナ自治区は数キロ、あのガザからは100キロも離れていないにも関わらず、ここは圧倒的に長閑だったのだ。夜のエルサレム旧市街は奇妙に静まり返る。それは、苦難が積み重なったこの街と、この街に関わる全ての人々にとっての、ある種の安らぎにも思える。

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キングフセインブリッジ。世界で最も困難な橋を渡れば、聖地へと続く道が開く。

携帯電話への未練を断ち切って、早朝に宿を発った。アンマンから、パレスチナ自治区との国境に向かうバスは、ムジャンマ・シャマーリーという郊外のターミナルを拠点としている。宿の前で捕まえたタクシーは、ポンコツの極みのような車体のくせに、運転する親爺が国境まで乗って行けとしつこい。ボラれるのが目に見えていたので、がたがたと激しく揺れる車内で無視し続けていると、突然車のエンジンが止まり、親爺が焦り出した。単なるガス欠である。ちょうど急な下り坂に差し掛かっていたので、ポンコツタクシーはしばしゆっくり滑降したのち、片側4車線もある大きなバイパスに入ったところで完全にその動きを止めた。後ろから猛スピードでやってきた車が、けたたましいクラクションを鳴らして追い越していく。この親爺はどの口で国境まで乗って行かないかと言っていたのだ。インシャラー。

大都会アンマンのバイパスのど真ん中、車はガス欠では動かないことを理解したポンコツ親爺は別のタクシーを捕まえようと必死。幸運にも1台の空車のタクシーが止まり(ポンコツよりもずっといい車だ。)、親爺と僕を乗せて、目的のバスターミナルに連れて行ってくれた。タクシー2台分だからと言って当たり前の顔で2重の料金を請求してくる親爺に対し、その半額だけを新しい運転手に手渡して、僕は颯爽と無数のバスが待機するターミナルへと向かう。キングフセインブリッジに行く乗り合いバスはすぐに見つかった。バスと言っても、車は普通の乗用車の大きさ。狭い後部座席の真ん中に座らされ、両脇を屈強な女性で固められ、身動きを取ることすら容易ではない状況で出発する。アンマンの大渋滞を抜け、車が流れだすと、禿山をどんどん下って行く。次第に周囲に緑が増えてきて、太陽もギラつき出す。ここは世界で最も標高が低いヨルダン渓谷の底。アンマンから一気に1000m以上を下ったことで、国境に着いたときには、季節が突然夏に変わったようだった。

キングフセインブリッジを渡ってヨルダン川を越えれば、そこはパレスチナ自治区だが、この国境越えは、世界でも有数の困難さを誇る。イスラエル兵から受ける嫌がらせや、、数時間以上の待ちぼうけや、ここを巡る苦労話はバックパッカーの定番ネタだ。この日、一緒に国境を越えた欧米人は、実は前日にも国境に来ていて、入国審査で6時間待たされた挙句、閉店時間だからと一方的にヨルダン側に追い返されたらしい。僕のパスポートには、シリアやイランやパキスタンなど敵国のスタンプがこれでもかと捺されているので、簡単に行くとはどうしても思えなかった。緊張感が高まる。

あっさりとしたヨルダンの出国手続きを終え、イスラエル側に向かうと、入国審査の建物に入るための長蛇の列ができていた。最初は整然と構築されていた列は次第に崩れ、混沌に変わってゆく。エントロピーの増大を率先するのは中国人のお姉さんで、気弱そうなアラブ系の係員に早口で詰め寄って、僕の前に強引に割り込みながら「この後は私のフレンドよ」と言って10人くらいの団体を放り込んできたので、逆に思いっ切り睨み付けて割り込めないように身体を前に入れた。この長蛇の原因となっているのは極簡単なパスポートチェックなのだが、いらつく旅人をよそ目に、軍服に身を包んだ若いユダヤ系の女の子が、つまらなそうにパスポートのページをパラパラとめくっている。きっと兵役中だろうが、好きでこんなことをやっているわけではないことを全身且つ全力で表現していた。ようやく建物の中に入ることを許され、ここからが入国審査の本番だ。窓口にいたのは中年の男性で、ドキドキしながら差し出したパスポートを受け取って、無表情のまま質問をぶつけてきた。「イスラエルでは何処へ?」「ホテルは?」「目的は?」「日本での仕事は?」そして、パラパラと僕のパスポートのページをめくり、眉をしかめて、「シリアは何をしに行った?」「イランは?」「パキスタンは?」最後に、もう一度日本での仕事を確認され、A4の申請書を差し出し、名前を呼ぶまでそのへんで待ってろと、彼は吐き捨てるように言う。

ここからが噂の、いつ終わるのかわからない待ち地獄。記入した申請書を持って、中国人の団体客やムスリムの家族連れが通って行くのをぼんやりと眺めていた。1時間くらいたっただろうか、遠くの方で僕の名前を呼んでいる声が聞こえる。慌てて駆け寄ると、制服に身を包んだ女性がニッコリと微笑んでいる。「あなたのラストネームはどうやって発音するの?イドってユダヤ系の名前みたいね」と言って、パスポートとIDカードを渡された。「行っていいわよ」なんと、ほんの1時間で解放されたのだ。真の地獄を覚悟していただけに拍子抜けだったが、ありがたいことには変わりない。ユダヤ系に似た名前のせいか、そんな阿呆な。荷物を受け取り建物を出ると、待っていたセルビスに乗り込んだ。この道を走れば、そこは聖地、エルサレム。

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