パキスタンは、まもなく数年ぶりの国政選挙が行われることになっていて、街は候補者のポスターで埋め尽くされている。イスラマバードの空港に無事降り立ち、予約していたラワルピンディのホテルに着いたときには、既に夜中になっていた。乗り継ぎのバンコクの空港で暇に任せてニュースを眺めていると、元大統領のムシャラフがイスラマバードで逮捕されたとの報が。少し、いや、だいぶ不安に思って、空港からホテルに向かう車の中でドライバーに尋ねてみると、「小さな事件だし、わしらにはあんまり関係ないことだね」と、答えはえらくあっさりとしたものだった。そうやって不安とともに始まったパキスタンの旅。そこで見たのは、大手メディアを通したパキスタンとは別の姿のパキスタンだ。
パキスタンは、東アジアやチベット・インドシナ半島からインドに跨る仏教・ヒンドゥー文化圏と、アラブからトルコ・ペルシャに広がるイスラム文化圏とが交わる場所にある。二つの文化圏の交錯は、カシミール問題という形で負の方向に顕在化する一方で、ヒンドゥーの神秘的な側面に影響を受けたイスラムのひとつのあり方であるスーフィズムやカッワーリー等の独特の文化を生んだ土壌でもある。パキスタン国内には、アフガニスタンとの国境付近など未だに治安が改善する見通しすら立たない場所もあるが、それ以外の治安は意外といい。この旅で最初に目指すのは、ここピンディから、ヒマラヤ山脈の最西端を越え、中国はウイグルのカシュガルに抜けるカラコルム・ハイウェイを走り、7000m級の山々に囲まれた村、フンザのカリマバードである。そこは、僕にとって、旅先で出会った友人に教えてもらってから、約10年間ずっと憧れの地だった。アクセスが悪く長期のスケジュールを要するし、やはりなんだかんだ言っても治安のことも頭をよぎり、なかなか踏ん切りがつかなかったのだが、行きたいときに行きたいところに行くしかないだろう、ということで、思い切ってみた32歳の春である。
翌朝。時差ぼけでぼんやりとした頭のまま、ラワルピンディ郊外にあるピルワダイのバスターミナルに行ってみる。バス会社のオフィスがずらりと並ぶ中、NATCO(Northern Area Transfer Corporation)の表示を見つけた。フンザの中心地であるカリマバードに行くためには、その数キロ手前のアーリアバード行きのバスが便利だ。窓口で聞けば、バスの出発時刻は夜の8時半。地球の歩き方やLonely Planetには昼過ぎに出発する便もあると書いてあったのだが、治安の問題もあって状況は大きく変化しているようだった。おそるおそる「何時間くらいかかるの?」と聞くと、売り場の親父はニヤリと笑いながら「24時間だな」と言う。正直丸一日バスに乗りっぱなしの絵は想像もできないが、ガイドブックには20時間って書いてあったし、乗ってみればあっさり17時間くらいで着くんじゃないのかと何の根拠もない期待を抱きつつチケットを買った。後から考えれば、その見込みは驚くほどに甘かったのだが、この時は、そんなこともつゆ知らず、時間を潰すためにラワルピンディの街を呑気にぶらぶら歩き出す。
ラワルピンディは、首都のイスラマバードの隣町である。イスラマバードが区画整理された人工的な街である一方で、ピンディはその対称をなし、整然さの欠片も感じられない。交通の要衝であるため必然的に各地から人は集まってくるのだが、その他に何があるわけでもない。決して広くない道路は排気ガスを撒き散らす車やバイクでごった返し、人で溢れかえる細い路地を切り裂くように、けたたましいクラクションを鳴らしながらホンダのバイクが突っ込んでくる。カラフルにデコレーションされた乗り合いトラックは、現地では「スズキ」と呼ばれている。SUZUKIの軽トラが多く使われているためで、こういうところでの日本の製造業の影響力は侮れない。新車ばかりが目に付く他のアジアの国々と比べ、年季の入った車が未だに現役で走り回っているのを見ると、つい10年前のインドの田舎町に迷い込んだようだった。ただ歩き回るだけでも身体に堪えるのは、時差ぼけだけが原因ではなく、この気怠い街の空気によるものかもしれない。結局は宿でゴネて夕方まで滞在時間を無料で延長してもらい、ゴロゴロして体力を温存した。これからの過酷なバスの旅に備え。
19時。晩飯を宿の近所で済ませ、タクシーでピルワダイのバスターミナルへ。熱くて甘いチャイを飲みながら時間を潰す。外でだべっているのはたいがいが男ばかりで、女性は室内で静かに座っている。薄暗い白熱灯に照らされるゴミゴミとしたバスターミナル、ここは二つの文化圏が交錯する、アジアのちょうどど真ん中。あちらこちらから掃き溜めのように人が集まり、そして気付けば何処かへと散らばっていく。そして僕も。NATCOの事務所の待合室でしばらく待っていると、20時過ぎに呼び出しがかかった。NATCOのバスは、「VIP EXPRESS」と車体に書いてあるものの、驚くほどVIP感にもEXPRESS感にも欠ける。質素な一列4人がけ、椅子の間隔は狭く、スプリングは既に怪しい。僕らを乗せたバスは、定刻通りにゆっくりと出発し、ラワルピンディの街を抜けた。僕を含めた乗客は、なすすべもなく揺られながら、時が過ぎていくのをじっと耐えている。いざカラコルム・ハイウェイへ。目的地のフンザまで、さて、あと何時間だろう。