トルコ、ハサンケイフとディヤルバクル。

ディヤルバクルの旧市街は広く、城壁に囲まれた巨大な迷路はとても1日で回りきれるものではない。しかし、迷いこむたびに糞ガキどもが纏わりついてきて疲れることこのうえない。そこで、その翌日は郊外まで足を伸ばすことにした。目指すはハサンケイフ。クルドの人と話していると「必ず行っとけよ」と念を押される場所である。ディヤルバクルからドルムシュ(乗合バス)で1時間のバトマンという街で、ローカルバスに乗り換えてもう1時間。ハサンケイフは、チグリス川に沿った本当に小さな街だ。

ハサンケイフには、古くはメソポタミアの文明の痕跡が残り、さらにローマ帝国の砦が築かれ、その後、複雑な文化的背景を有するトルコの縮図であるように、キリスト教やイスラム教などさまざまな要素が塗り重ねられながらも、現在でも人が住み続ける“生きた”遺跡である。そして、ハサンケイフの数千年の歴史は、僅か数年後に終了することが決定している。チグリス川を堰き止めたダムがこの地に建設されるため、ハサンケイフは街ごと湖の底に沈むことになる。ダム建設は、経済的に貧しい東トルコを活性化する政策の一つだそうだが、公共事業で地方に一時的な利益がばら撒かれても、それによる持続的な発展が大して期待できないのは、僕らも身に染みてよくわかっているはずなのだが。

バトマンから寿司詰め状態のバスを降りる。チグリス川に架かった橋を歩いて渡ると、川に沿った切り立った崖の上に小さな街が見えた。日曜日ということもあるのか、近郊からの観光客で賑わっている。皮肉なことだが、ダム建設が決定して以降、ここに訪れる人は劇的に増えているらしい。土産物や食堂やカフェが立ち並び、客引きの声が煩わしい路地を抜け、街の全景を見渡すことのできる高台に登る。チグリス川から突き出しているのは約1,000年前に建てられたという橋脚の跡だ。周囲を見渡してみると、この地は山に囲まれたすり鉢状の地形であるのがわかる。この巨大なすり鉢全体が湖になるということらしい。そういえば、高台に登る入り口で、貧しい子供がその場で摘んだ菜の花を観光客に売り付けようとしていた。カメラを向けると、菜の花を掴んだまま最高の笑顔を返してくれた。残念ながら菜の花は買えないけれど、お礼に飴ちゃんをあげよう。この街が湖の底に沈んだとき、彼らはどこに行くのだろうか。行く場所はどこにあるのだろうか。

ハサンケイフは、さまざまな人々や団体がその保全を訴えていて、この日も署名を集めるブースが用意されていた。民間の団体だけではなく、ヨーロッパ諸国も政府単位で反対を表明しているにも関わらず、トルコ政府は意地でもダム建設を推し進めようとしている。治水や発電の必要性がどれだけあるかは余所者の僕が言うべきことではないだろうし、考古学的な評価もよくわからないのだが、この美しい光景を永遠に失った代償として得られるものって、本当にそこまでの価値があるのだろうか。ダムの建設は一部ではもう始まっているものの、完成は4年後となる。多くの人がその保護を訴えて活動を続けているし、諦めるにはまだ早いのかもしれない。
Save Hasankeyf and the Tigris Valley ! 

ハサンケイフを満喫した後、ドルムシュを乗り継ぎ、ディヤルバクルに戻った。ハサンケイフを出る頃から、あれだけ晴れていた空に分厚い雲がどんどん広がってきて、ディヤルバクルに戻ったときには豪雨に変わっていた。まさに、だけども問題は今日の雨。傘がない。旧市街のバス停から宿まで必死に走る。びしょ濡れのまま、すぐにシャワーを浴び、部屋に戻ってうとうとしていると、気が付けば雨は止んでいた。時間はもう日暮れ時、ディヤルバクル旧市街の散歩に出かける。ふと好みの裏路地に折れると、チャイハネから騒々しい音が漏れ聞こえてきた。店内のテレビはサッカーの試合を流していて、その前に若者が群がり、1つ1つのプレーに歓声を上げている。物欲しそうに眺める僕に気付いた一人が手招きをするので店に入ると、テレビの真正面の特等席を無理矢理用意してもらった。他の人に申し訳ない気もして最初は遠慮したものの、結局はありがたくそこに座り、熱いチャイをちびちびと飲みながら試合を見る。

テレビの中では、リーグ戦が終わった後の上位4チームがUEFA Champions LeagueやEuropa Leagueの出場権を争うプレーオフが行われていた。本日の試合はガラタサライとトラブゾンスポルだ。僕が入店したとき、既にガラタサライが2-0でリードしていた。そして、チャイハネに集う人たちの多くはガラタサライを応援している。ガラタサライは、カメルーン代表のエブエが一人でボールを持ってサイドを駆け上がり、超絶的な個人技でトラブゾンスポルの守備を破壊し尽くしている。一方のトラブゾンスポルは、アルゼンチン人のグスタフ・コールマンが中盤で抜群のキープ力を発揮しているものの、他の選手が彼と同じイメージを抱くレベルまで到達していない印象がする。前半終了間際、ガラタサライのFWネカティ・アテスが決めて3-0になった。そして、ハーフタイム。

チャイハネの前で雨上がりのひんやりした外気に当たっていると、一緒に観戦していた若者3人組に声を掛けられた。話があると言って暗い路地へと消えたので、ちょっとビビりながらついて行く。人気のない裏路地で、その若者は自分のことを「PKKのメンバーだ」と言った。ジーパンにパーカーを着た普通の若者たち。おそらく20代前半くらい、もしかしたら10代後半かもしれない。屈託のない笑顔で、腕に入った刺青の文字を自慢してくる。何と書いているのかはわからなかったが、クルドに対する帰属意識を刻んだものなのだろう。彼らは英語ができず、私もトルコ語やクルド語は挨拶程度だし、なかなかコミュニケーションを取ることができない。そういえば彼らはチャイハネでガラタサライを応援していたはずだ。思い切って、「なんでガラタサライが好きなの?クルドのチームじゃないでしょ?」と聞いてみた。ガラタサライはご存知の通りトルコリーグで最多優勝を誇る金持ちクラブで、イスタンブールのヨーロッパ側に本拠地を置く。それって、トルコの権力側を象徴するようなクラブではないの?その意味では対戦相手のトラブゾンスポルの方が、クルド人が住む地域に近いし、そもそもディヤルバクルを本拠地とするディヤルバクルスポルもあるし(日本に帰ってから調べてみたら3部まで落ちているようだったが)、他にもクルド系のクラブもあるのに。

返ってきた答えは至極簡単なものだった。一瞬、僕の質問に当惑したような表情を見せた後、満面の笑顔で「ガラタサライもクルディスタンだ!」と言い放った。いや、そんな無茶な。緊張が一気に解けて膝からへなへなと崩れ落ちる。日本のひと昔の田舎の小学生が皆ジャイアンツが大好きだったように、単に強いチームが好きだという無邪気さの表れではないか。いや、却ってそんな無邪気な彼らが、自らPKKを名乗っていることの方が驚きではある。彼らは「近いうちにゲリラに行くんだ」というようなことも言っていた。元を辿って考えてみれば、ローマ帝国の時代から戦争が耐えない地域であるにも関わらず、独自の文化を守り続けている人たちだ。もちろん、PKKとしての行為を肯定するつもりはない。ただ、そんな歴史を自ら背負おうとする彼らがPKKの一員であるということは、僕たちが感じるほど特別なことではないのかもしれない。

彼らと一緒にチャイハネに戻ったときには、既に後半戦が始まっていた。トラブゾンスポルもコールマンが意地を見せて1点を返す。次第にどちらも中盤のプレスが緩々になり、ノーガードの殴り合いになってきた。ガラタサライのエブエのキレは相変わらずで、サイドから中に切り込んで見事な得点を決め、チャイハネの盛り上がりは最高潮に達する。最終的には4-2でガラタサライの勝ちで終わった。皆とても満足そうに帰っていく。先程の若者を見つけたので別れの握手をした。彼はガラタサライが勝ったことで、本当に機嫌がよさそうだ。別れ際、なんて声を掛けたらいいのかわからなかったので、「死んだらあかんで」と、思わず日本語で呟いて、真っ暗な細い路地を一人宿へと歩いて帰った。

トルコ、ディヤルバクル、その1。

ゲワシュから、埃まみれの身体でワンの安宿に戻り、久しぶりのシャワーを浴びた。下水から漂う腐敗臭が強烈でも、シャワーを浴びられるだけいいじゃないか。正確に言えば、備え付けのシャワーは全く機能しなかったので、巨大なバケツに溜まったヌルいお湯を浴びただけだったのだが。その夜は長い停電があり、ロウソクの灯りを頼りに食堂で夕食をとる。本を読むこともできなかったので、早めに寝ることにした。

翌朝も「世界最高の朝食」をいただいたあと、素敵な経験を山ほどさせていただいたワンを離れ、ディヤルバクルという街に向かった。ワン郊外のバスターミナルから約6時間の道のりとなる。まずは、ワン湖に沿うように西へと走る。前日訪れたゲワシュ、アクダマル島を過ぎ、タトワンという街へ。崖崩れで片側通行の道を何箇所も通過する。これも地震の影響だろうか。

タトワンから山道を入り、途中のドライブインで昼食の時間だ。ラムの煮込みを美味しくいただき、「お勘定!」を覚えたてのクルド語で言うと、店員が感激してチャイを奢ってくれた。ちょうどバスが出発しそうだったので、ちゃんとお礼も言えないまま慌ててバスに乗り込む。バスの窓からドライブインを眺めると、先程の店員が満面の笑顔で手を振って見送ってくれている。こちらも必死に手を振り返しているままに、バスは再び西へと走り出した。

ワンからディヤルバクルへの道中、軍による検問が何度もあった。バスが突然停まったと思えば、軍服姿の兵士がバスに乗り込んで来て、乗客一人一人からIDを回収した。僕も焦ってパスポートを渡そうしたが、彼らはニコリともせず首を振る。典型的な東洋人は見逃してくれるらしい。兵士はバスを降り、回収したIDの照合を行なっているのか、そのまま10分ほど待たされる。バスの車掌がIDの束を受け取って、乗客へと返され、ようやくバスが出発する。1回毎の足止めはたいしたことないが、これが数回あったので、なかなかのストレスだ。バスは山を抜け、だだっ広いアナトリアの平原を走り、途中の街で乗客を入れ替えながら、ディヤルバクルに着いたのは、すっかり夕方になっていた。郊外の真新しく巨大なバスターミナルから、旧市街までドルムシュ(乗合バス)に乗り、古く黴臭い安宿に部屋を確保した頃には、すっかり日も暮れていた。

路上のケバブ屋台で簡単な夕食を済ませ、チャイハネで食後の温かいチャイを飲みながらテレビでニュースを見ていた。英語字幕もないローカルなニュースは、トルコ国内での爆弾テロのことを伝えていた。ぼんやりと眺めていると、テロの起こった場所の地図が映し出される。それは、今、僕がいるディヤルバクルのすぐ近くだ。なるほど、検問も多いわけだ。一時は落ち着きを見せたクルド人とトルコ政府との衝突も、隣国のシリア情勢の悪化を受け、再び不安定さを増している。しかし、この地域の素敵なクルドの人々と触れ合っていると、テレビの中のテロのニュースは、遠いどこか別の世界のことに思えてきがちだ。でも、この同じチャイハネの隣で座ってテレビを見ている親父も、チャイを持って来てくれた若い兄ちゃんも、そんなハードな現実の中で生きている。

ディヤルバクルの新市街は洗練された大都会であるが、城壁に囲まれた旧市街が残っており、今も昔もクルド文化の中心である。トルコ政府がクルド人を激しく弾圧していた頃、クルド人の抵抗運動が最も激しかったのはこの街だったと聞いた。翌朝、少し早く起きて旧市街を歩き回る。周囲を城壁で囲まれた旧市街の中は、石畳の細い路地が迷路のように入り組み、無数のモスクが点在している。中東の典型的な旧市街だが、マラケシュやイスタンブールのように観光地化されているわけではないので、裏路地には濃厚な生活感が漂う。城壁の東側にはチグリス川、その流れは遠くイラクのバクダッドを経由してペルシャ湾まで繋がっている。僕のような人間にとっては、そんな街を歩くことが何よりの楽しみだ。この街の地図を見るだけでわくわくしていたし、何日かかけてこの街をじっくりと歩く。そのつもりだった。だが、しかし。

アジアや中東の街歩きは多少経験があるつもりだが、どう考えても、この街の糞ガキは異常である。ここの糞ガキどもには堂々のワースト・オブ・ザ・ワールドを差し上げたい。この日は土曜日で学校が休みだったので、力をみなぎらせた子供たちが路地に溢れかえっていた影響もあるのかもしれないが、それにしても酷いのだ。例えば、以下の1~4のケース。1.男の子2人組と仲良くなったので、日本で買って持っていったパイン飴をあげた。袋を破き、2人とも目の前で地面に叩きつけて粉々にしやがった。2.「写真を撮れ」というので写真を撮る。「見せろ見せろ」と言うので、撮った写真を見せたら、デジカメのディスプレイに唾を吐きかける。3.路地を歩くと、かなりの確率で子供の集団に囲まれる。マネーマネーと言いながらポケットの中に手を突っ込んでくる。4.無視して歩いて行くと、後ろからずっと付いて来て石を投げてくる。石がデジカメに当たったので、本気で怒って振り向いたら、奴らは蜘蛛の子を散らすように消えた。

路地を歩いて、暇なガキどもに捕まるたびにいつもこんな調子で、多いときには数十人の糞ガキに追い回されるのだ。最初は状況を楽しんでいたつもりだったが、だんだんと嫌気が差してくる。一方で、ある程度成長すれば、みんないい人で、歩いているだけで何度もチャイやビールをご馳走してもらうのだが。なんなんだろう、この違いは。何にせよ、おもしろい街ではある。なかなかに疲れるが。

夕方になる。まとわりつく糞ガキを蹴散らしながら路地を抜け、旧市街を取り囲む城壁の上に登る。真っ暗な階段を登ると、旧市街が一望できる場所に出た。みな、チャイやタバコでくつろいでいるので、僕もいつの間にかその輪に入っていた。ぼんやりと日暮れ時の景色を楽しみながらおしゃべりしていると、旧市街に星の数ほどあるモスクから一斉にアザーンが流れ出す。夕方のアザーンにすっぽりと包み込まれた街を眺めるたび、どこかこそばゆくも懐かしい気持ちになるのだ。なぜか。旅もようやく折り返しに差し掛かった。

2012年、トルコ、アクダマル島。

昔、ある島に敬虔なキリスト教徒の両親とその娘が住んでおった。娘は、島の外のイスラム教徒の男と恋をした。しかし、娘の両親は、敬虔なキリスト教徒である故に、娘と男が一緒になることを許してくれなかった。愛し合った二人は駆け落ちの段取りを整え、ある晩に決行する。夜の闇に紛れ、男が船で島まで娘を迎えに行く。ちょうどそのとき、突然の嵐で船は沈み、溺れ死んだ男の亡骸だけが島に辿り着いた。その亡骸を見つけた娘は、ショックで自らの命を絶ってしまう。父親が駆けつけた時にはすでに遅い。あ、そうそう、その娘の名前はタマーラといって、父親は心臓に持病を抱えている設定。娘の亡骸を見つけた父親は、ショックのあまり心臓発作を起こし、「アグッ、タマーラ・・・」と言って絶命したそうだ。それから、その島を「アクダマル島」と呼ぶことになったそうな。
・・・結局ダジャレかよと脱力感に襲われるこの昔話は、ドゥバヤジットで仲良くなった八百屋のおっさんから聞いたものだった。実際にそんな家族が住んでいたかどうかは知らないが、アクダマル島はワン湖に浮かぶ無人島で、アルメニア様式の教会が有名だ。

宿の部屋をシェアしているニコが帰って来たのは夜遅くだった。彼は翌日ワン湖の反対側にあるタトワンという街まで船で抜けるという。私はワンでもう1泊して、アクダマル島まで足を伸ばすつもりだが、この宿にもう1日滞在するという選択はあり得ないので、翌朝に宿を変えることにしていた。カルスから旅を伴にしたニコとも、今夜でお別れである。彼は世界中を巡っているらしいので、きっとまだ旅の途中だろう。よい旅を。

早朝に宿をチェックアウトし、前日のうちに目を付けておいた安宿に変えた。先の宿の半額以下の値段、共同のシャワーも(悪臭が凄まじいものの)ちゃんと備わっている。とりあえず、荷物を置いて朝食へ。なぜだか知らないが、ワンは朝食が有名なのだ。「Kahvati(朝食)Caddesi(道)」という名の通りまである。その路上には、名前に違わず、朝食店が軒を連ねている。焼きたてのパン、ハチの巣付きの新鮮なハチミツ、メネメン(トマト煮込みの卵とじ)と温かいチャイ。誰が言い出したのか、この街での朝食は「世界最高の朝食」とのこと。残さず美味しくいただいた。

アクダマル島へは、ワンからドルムシュに乗って1時間のゲワシュという湖沿いの小さな街まで行き、そこからアクダマル島へ渡る桟橋へ向かうドルムシュに乗り換える。まず、ワンからゲワシュに向かうドルムシュを探すのに苦労した。地球の歩き方やLonely Planetの案内も適当なうえに、道行く人に聞いても、英語が話せないだけでなく、人によって言うことが違う。結局、よくわからないまま間違ったバス停に連れて行かれ、直射日光の下で1時間近く待ちぼうけをくらい、さすがにこれはおかしいと感じて一旦中心部まで戻る。別の人に聞いた方向へ歩くと、ぜんぜん違うところにゲワシュ行きドルムシュが大量に停まっているのを発見した。既に2時間以上ロスしているが、まあ、よくあることだ。ゲワシュに行ける喜びだけを単純に味わっていればよい。

ドルムシュに乗り込むと、これまでの疲れでうとうとしてしまって、気付いたらゲワシュだった。降りたところでチャイを飲んでいると、アクダマル島への桟橋方面へ向かうドルムシュがちょうど発車しようとしていたので、熱いチャイを慌てて胃の中に流し込み、急いで乗り込んだ。5分ほど湖沿いを走ったところで降ろされる。ボートが3隻停泊した小さな桟橋と寂れたレストランの他は何もなく、たまに大きなバスが土煙を巻き上げながら通り過ぎていく。

桟橋に行くと、外国人は明らかに私一人で、船員らしき人の他は誰もいない。彼に聞いてみると、16人(!)集まらないと出航しないという。貸切りは120TL、なかなかのボッタクリ価格となっている。残り15人がやって来るという奇跡までひたすら耐えるしかない。堤防に腰掛けて湖をボーッと眺める。今日は天気がよい。ポカポカと温かいお陰で時折意識を失いながら(うとうと)、何かが起こるのを待っている。

しばらくすると、ドイツ人のご夫婦がやってきた。彼らも困っている様子だったので、もう少し待って誰も来なかったら貸切りをシェアしようと約束する。結局1時間は待っただろうか。客が新たに来る気配すらないので、船員と交渉して120TLを90TLにまけさせ、ご夫婦との割り勘の1人30TLで手を打った。貸切りのボートが今まさに出航しようとしたところで、明らかに船員には見えない人間が数人わさわさと乗り込んでくる。どこに隠れていやがったこのくそジジイ。まあ、これは予定調和の至極当たり前の光景でもあるわけで。

さて、アクダマル島は、アルメニア教会を中心に杏の花が咲き乱れる小さく美しい島だった。この日の天気は最高で、空は抜けるように青く、深く緑色に沈んだ湖とのコントラストが眩しく、思わず目を細めた。教会の裏側の小高い丘に一生懸命登れば、島の全景だけでなく遠く雪山まで綺麗に見渡すことができる。静寂が支配する島の周囲をゆっくりと歩き、その景色をしっかりと目に焼き付け、ボートで陸側の桟橋に戻った。ドイツ人のご夫婦はレンタカーで旅をしていたので、ゲワシュの村まで乗せていただくことになった。ゲワシュに戻るためにヒッチハイクを覚悟していたので、これは助かる。彼らはこれから近郊の遺跡を回るというので、誘っていただいたものの、僕はゆっくりと街歩きをしたかったので申し訳ないがお断りした。ほんと感謝。

ドイツ人ご夫婦に車で送っていただいたこのゲワシュは本当に小さな村だった。最初はすぐにワンに戻ろうかと思ったけれど、背後に絶壁のように聳えた雪山があまりに美しかったので、村を少し歩いてみることにする。村のメインだがシンプルな通りには大きなモスクがあって、青い空に突き刺さるミナレットが大迫力だ。こんな小さな村だと外国人は珍しいのだろう。道を歩いているだけで、数軒あるチャイハネのあちらこちらから声をかけられ、チャイを次々にご馳走になる。コミュニケーションはトルコ語の会話帳と覚えたてのクルド語の数フレーズのみを駆使。こちらのテーブルへ、いやいやこちらのテーブルへ、俺のチャイを、いやいや私のチャイを飲めや飲めやとたいへんなことに。結局、一銭も払わないままにお腹がたぷたぷになるまでチャイをいただいた。ガイドブックには載っていなくても、こんな素晴らしい村があるということを、自分自身が忘れないためにも、きちんと記しておきたかった。

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