2012年、トルコ、カルス、その1。

世界的に有名なトルコの作家であるオルハン・パムクの「雪」という小説は、カルスを舞台にしている。トルコの北東部、アルメニアとの国境に近く、トルコでも最も寒い地域の一つだ。カルスの4月の最低気温が氷点下だったことを知ったのは、日本を発つその当日にたまたま天気予報を調べたからで、慌ててダウンジャケットを丸めてバックパックの奥に詰め込んだ。

日本で買ったオルハン・パムクの「雪」は、行きの飛行機の中で読み始めて、カルス滞在中に読了した。日本語の翻訳があまりに残念な出来なのだが、小説自体の価値は非常に高いと思う。カルスの街で軍事クーデターが起こり、イスラム原理主義と、コミュニズムと、クルド人、そして貧困問題とが複雑に絡み合いながら話が展開する。アメリカやヨーロッパの作った、いわゆる世界の潮流というやつに翻弄されるイスラムの国の微妙な立場や、人々の抱く閉塞感がテーマとなっている。そして、小説の中のカルスの街は陰鬱さの象徴である。日差しが暖かで華やかなイスタンブールから、寒くて陰鬱な(と描かれている)カルスヘと飛ぶ。ただの物好きなのか、なんなのか。でも、そんな「陰」な部分に惹かれるものがあったのは事実だ。

イスタンブールの空港からトルコ航空でカルスまでは、ちょうど2時間。そして、空港での話をここに記しておかねばなるまい。イスタンブールの空港の国内線の到着ロビーの端っこに食堂を見つけた。社員食堂によくあるバイキング形式。ちょうどお昼時だったので、空港のスタッフで賑わっていた。そう、それはまるで、沖縄好きには有名な、那覇空港の空港食堂だ。往々にして、この手の店の飯は美味い。そそくさとチェックインを済ませ、食堂に入る。9.5 TLで食べ放題。メインのトマト煮込みとマカロニは、まあまあ普通という感じだったが、特筆すべきはトレイの左上に置かれた白いスープ!おそらく鳥と思われる濃厚な出汁にレモンを絞ると、抜群のバランスでコクと酸味とが口の中に広がる。まだ旅の最初だったし、どこでも食べられるだろうと思ってスープの名前も聞かずに出てしまった。しかし、その後、いろんな食堂に入ってスープを注文したのだが、ここを越えるものには出会えなかったのだ。トルコではレンティル(レンズ豆)スープが一般的なのだが、ここのスープは根本的に何かが違った。実は、この旅で食べたものの中で、一番美味しいと思ったのは、この空港食堂のスープだったのだ。それもどうかと思うけれど。

飛行機はほぼ満席である。この日はトルコの独立記念日を含めた連休に当たるらしく、帰省の家族連れが多かったように思う。どう見ても、外国人は私一人という印象。カルスの質素な空港に着陸して飛行機の外に出ると、だだっ広い平原にところどころ雪が残っている。確かに風は冷たいが、日差しが強いので、思ったほどに寒くはない。空港のボロボロのターンテーブルに乗って回ってきたバックパックを受け取り、市内に行くバスを探す。見当たらない。停車している乗合バスはいくつかあるが、書いてある行き先は別の街だ。バスに乗ろうとしている人に聞いてみたが、タクシーを使えと言われた。トルコのタクシーは決して安くはないのだが、渋々タクシーに乗車する。タクシーの運ちゃんに教えてもらったホテル。最近建て替えたらしく、小奇麗な中級ホテルといった風情だが、人の気配を感じない。この街にホテルの需要なんてどのくらいあるのだろう。結局、2泊したが、私以外には一組の白人カップルを見かけただけだった。それでも、イスタンブールからは考えられないくらい安いし(というか、前日のドミに少し足したくらいの値段だったし。)、このような寒い土地では熱いお湯がわんさかと出るのが何より嬉しい。

カルスは、アルメニアやロシア、そしてトルコが何度も奪い合った土地である。また、未だに大きな問題として残る、トルコのアルメニア人大虐殺の中心地でもあった。街を歩いてみると、これまでに来たイスラムの街とは少し違う空気を感じる。街の建物は、確かにロシア的な重厚さを感じさせる。面白いのは、ロシアの占領時代にロシア正教の教会だった建物に、ミナレットを無理矢理両サイドに取り付けてモスクとして現役で使っているところだ。もともとキリスト教の大聖堂だったアヤソフィアがいつの間にかモスクになっていたように、スクラップ&ビルドではなく、大幅な転用により独特の文化を育んでいる。この土地のたくましさが表れていると思う。

戦略上の拠点であったこの街には、北側の山の上に難攻不落の要塞があって、頂上まで登ると街の全景を見渡すことができる。下から見ていると埃っぽい小さな街に思えたが、上から眺めてみるとそこそこの高いビルもあって、思ったよりも規模が大きい。地元の子供に声をかけられ、一緒に山を下った。このあたりになると、ほとんどの人は英語を話すことができない。会話帳を片手に、あやふやなトルコ語で話しかけてみる。「クルド人か?」と聞いてみると、「トゥルク(トルコ人)!」と露骨に嫌な顔をされた。確かに聞き方が悪かったのかもしれないが、少しばかりのショックを受けた。後で聞いた話では、ほとんどをクルド人が占めるトルコ東部にあって、カルスだけはトルコ人の比率が高いとのことだった。

やはり日が沈むと冷える。せっかく持ってきたダウンジャケットを取り出し、街を歩いた。もともと人通りが多い訳ではなかったが、夜になると余計に寂しさが際立つ。ただ、人々の温かさは、それを忘れさせてくれる。たまたま通りがかった小さな雑貨屋で声をかけられた。店のおっちゃんに招かれ、温かいチャイを何杯かとお菓子をいただく。トルコ語しか通じないので、指差し会話帳のみが頼りだ。1時間くらいはそこにいただろうか。トルコ語なんてさっぱりわからないはずなのだが、不思議とおっちゃんが何を言っているのかは、わかるような気がする。翌日の来訪を誓い、お礼を言って店を出た。

夜も更け、食堂で晩飯を食べながらニュースを見ていたら、イスタンブールでは、ガラタサライがリーグ優勝してサポーターが大騒ぎをしていた。つい数時間前まで、僕はその場所にいたはずなのだが、なぜか今は遠いアルメニアとの国境近くで、キョフテのトマト煮込みを食べながら、まるで別の世界の出来事のようにそれを眺めている。

2012年、トルコ、イスタンブール、その2。

スルタンアフメトからトラムで数駅いくと金角湾(ゴールデンホーン)に出る。有名なガラタ橋はエミノニュという駅が最寄りになるが、路面電車から眺めていた景色があまりに美しかったので、一つ手前のシルケジで思わず飛び降りた。時間は夕暮れ時、海沿いをガラタ橋を目指して歩く。ヨーロッパとアジアとは、便宜上この先のボスフォラス海峡で隔てられている。今、私が立っているところがヨーロッパで、金角湾からボスフォラス海峡を渡れば、そこはアジアになるというわけだ。シルケジからエミノニュまでの海沿いには、アジアへと向かう船が多数停泊している。

それにしても活気が凄い。土曜日の夕方だったこともあり、海沿いの歩道は散歩している人で溢れている。車やトラムもひっきりなしに走り去っていく。手前にあるイェニ・ジャーミーと、高台にあるスレイマニエ・ジャーミイを眺めながらガラタ橋を渡る。ガラタ橋は2層構造になっていて、下はレストラン街、上はトラムも車もひっきりなしに走っていて、歩道からは無数の釣糸が海に垂れている。ガラタ橋を渡り切るとカラキョイと呼ばれる地区だ。カラキョイの金角湾沿いは魚市場になっていて、ここで念願のサバサンドを手に入れた。たっぷりの油で焼かれたサバに、たっぷりのレモンを絞り、固めのパンに挟んで食べる。焼きサバのいい香りに食欲を刺激され、お腹が空いていたこともあり、一心不乱に貪り食った。

いつの間にか日が沈んで辺りが暗くなっている。4月後半のイスタンブールは、まだ肌寒い。イェニ・ジャーミーの裏側の路地から歩いてスルタンアフメトまで戻った。途中の適当な食堂で、キョフテ(肉団子)のトマト煮込みを食べ(というか、トルコの飯は旨過ぎて、逆に困る。正直かなり太ったし…)、移動の疲れもあったので、早めに宿に戻って寝た。

翌朝。疲れはまだ抜けていないはずだが、早い時間に勝手に目が覚めた。カルス行きの飛行機は昼過ぎに出るので、時間までスルタンアフメトを中心に街を歩く。早朝は人が少ないので快適だったが、9時にもなると観光客で溢れ返る。アヤソフィアなんて、入場のために長蛇の列ができていて、その列を見た瞬間、中に入る気がすっかり失せてしまった。まあ、さすがは世界に名立たる観光地。なにせ、東ローマ帝国からセルジュク朝、オスマン帝国と、1700年もの間世界の中心であり続けた街だ。これだけの長い歴史を積み重ねた街は、世界中見渡しても他にないだろう。

そして、現在もその歴史が更新されているのがこの街の魅力だろう。トラムは象徴的だ。スルタンアフメト周辺の道が狭い旧市街、その狭い道をトラムがどんどん走る。歴史のあるモスクの目の前をスタイリッシュなデザインのトラムが走り抜けていく。ここまで歴史と現在とがぐちゃぐちゃに混在した街には、あまりお目にかかったことがない。

他のイスラム諸国と同様か、もしくはそれ以上に、トルコの人々は旅人を温かく迎えてくれる。イスタンブールのような観光地では、もちろん客引きは多いが、普通の親切心で話しかけてくる人も多い。そして、ほとんどの場合、それはサッカーの話になる。イスタンブールにはガラタサライとベジクタシュ、フェネルバフチェの3クラブがあって、ガラタサライのサポであれば稲本潤一のことを覚えているし、ベジクタシュのサポであればイルハン・マンスズのことを聞いてくる。そして、私が大阪から来たと言えば、「おー、ガンバ大阪!」と返してくるが、セレッソ大阪は知らない。悔しい。去年のACLでベスト8まで残ったのに。ああ悔しい。

そういえば、イランを旅したときは、イスファハーンの路上で子供達に「カワサキ!カワサキ!」と声を掛けられた。最初なんのことだかわからなかったのだが、よくよく考えてみれば、川崎フロンターレがイスファハーンを本拠地とするセパハンとACLで死闘を繰り広げた後だった。

そういえば、シリアを旅したときは、アレッポの宿で出会ったマンチェスター出身のイギリス人と、ガンバ大阪が話題に上った。ちょうど、CWCでマンチェスターUとガンバ大阪が戦った年。「じゃあ、君はユナイテッドサポ?」と聞くと、ニヤリと笑って「本当のマンチェスターはユナイテッドじゃない。シティーだよ」と言った。こちらも思わずニヤリと笑って「それはこっちも一緒。大阪と言えばセレッソやで」と言った。彼は、今年は本当に美味しいお酒が飲めたことだろう。私がセレッソを肴に美味しいお酒を飲めるのは、いつになることやら。

世界共通言語としてのサッカー。この旅でもサッカーを好きでよかったといろんな場面で思った。そんなエピソードは、後でたくさん出てくる。

時間をみると、11時になろうかという頃。慌てて宿に戻ってバックパックを担ぎ、空港へと急いだ。

2012年、トルコ、イスタンブール、その1。

いつものように仕事を無理矢理終わらせたことにして、深夜の関西国際空港からエミレーツ航空に乗り込んだ。ドバイ経由でイスタンブールに向かい、イスタンブールから翌日のトルコ航空の国内線に乗り、トルコの東の端・アルメニアとの国境の街のカルスへと飛ぶ予定をしている。

ドバイの空港に着いたのは現地時間の早朝5時。イスタンブール行きの飛行機の出発は11時である。長時間待ちのトランジットには馴れている。トランジットの楽しみと言えば、空港の美味しい飯しかない。ドバイの空港には、エミレーツ航空の客限定で、4時間以上のトランジットのための飲み放題食い放題のレストランがある。ほとんど案内がないためか、実は旅行者の間でもあまり知られていないのだが、これがなかなかのクオリティの飯を思う存分楽しむことができるのだ。

定刻通り空港に着く。ドバイは2年前のイランの旅以来だ。早朝の気だるい空気を掻き分け、薄い記憶を頼りにレストランを求め歩く。そして、そこは確かに2年前は、そのレストランだったところ。表示がBusiness Class Loungeに変わっている。一瞬、血の気が引いたのだが、とりあえず思い切って突入した。2年前は無愛想だったはずの窓口の女性係員の愛想がやたらと丁寧である。さすがBusiness Class Lounge。しかし、その愛想は、全身ジャージの汚らしい東アジア人を一瞥した瞬間に変化する。

私「ここって、ビジネスクラス専用?」
係員「そうですけれども、何か?」(汚物を見つけたような目で)
私「ここって、トランジット客向けのレストランじゃなかったっけ?」
係員「違います。」(汚物が思ったより面倒くさかったときの目で)
私「ええと、確か2年前はトランジット客のためのレストランだったと思うんだけど」
係員「ねえ、2年って長いと思わない?」

そうだよね、2年は長いね。いろんな意味で。妙に納得して引き下がった。

どちらにしろ腹は空いている。例えば、ここが東南アジアの空港であれば、安定して美味しい食堂には困らないのだが、残念ながらここはドバイだ。売店で選んだ弁当は、ラム・ブリヤニ。口にしたが、なんだか絶望的に味の根幹がない。慌てて塩をもらってパラパラと振り掛ける。塩味さえも吸い込まれて消え去るような、それはまるで味のブラックホール。一人でぼそぼそと食す。

エミレーツ航空は、機内食は美味しいし、サービスも文句がないのだが、いかんせんドバイの空港が退屈だ。日頃あまり読む時間がない長編小説をめくりながらも、疲れでうとうとしつつ、漫然と時が過ぎるのを待った。

ようやく11時。飛行機に乗り込み、イスタンブールに着いたのは現地時間の16時を過ぎた頃。イスタンブールのアタテュルク空港から地下鉄と路面電車を乗り継いで1時間弱、スルタンアフメトの駅で降りた瞬間、いきなり巨大なブルーモスクとアヤソフィアが目に飛び込んできた。

安宿街は、ちょうどこの裏手に当たる。いくつか安宿を回ったが満室ばかり。3軒目で別の宿を紹介してもらい、ようやく部屋を確保した。1晩10ユーロのドミトリー。屋上に立てば、アヤソフィアが正面に迫る素敵な立地だった。

宿のスタッフと立ち話。
彼「トルコは初めてか?」
私「うん、そうですけど」
彼「この後はどこに行く?」
私「ええと、明日、カルスに」
彼「カルス?なぜそんなところに行くんだ?何もないし、危ないぞ」
私「いや、別に、ただ行きたかっただけで」
彼「イズミル、エフェス、パムッカレ、いいところはたくさんあるぞ」
私「んー、そうだね…」
彼「それからカッパドキアだ。カッパドキアは必ず行きなさい。わかったね?」
私「メ、メイビー…」
ごめん、カッパドキアすら行ってない。しかし、東トルコは、イスタンブールの人から見ても辺鄙なところというイメージを持たれているようだ。逆に、私の気持ちはこんなところで盛り上がる。

さて、宿に荷物を置く。極度の寝不足だがテンションは高い。このままイスタンブールの街を徘徊することにする。まずは海を目指した。アジアとヨーロッパが(便宜上)交錯するボスフォラス海峡、そこからヨーロッパ側へ入り組んだ金角湾へと。

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