2012年、トルコ、ドゥバヤジット、その1。

ドゥバヤジットは、カルスからバスで4時間かけて南に下ったところにある小さな街だ。イランから来た旅人は、この街からトルコに入国することになる。なにより、ノアの箱舟が洪水の後で漂着したと言われる5000m級のアララト山の麓にあることで有名だ。アララト山は古くからアルメニア人にとっての象徴であったのが、度重なる争いの末で、現在はトルコ領内となっていることからも、両国の複雑な関係をうかがい知ることができる。そして、ここからが本格的なクルド人の地域となる。

カルスからドゥバヤジットへ行く手段は、1日数便のバスしかない。朝一には直行のバスがあるという「地球の歩き方」に記載の情報は見事に裏切られ、この時点では直行便は廃止されたようで、全ての便でウードゥルという街での乗り換えが必要となっていた。早朝、カルスの質素なバスターミナルに行くと、昨日アニで一緒だったNicoが既にバスを待っていた。彼もドゥバヤジットに行くという。一人旅同士、仲良くなるのは早い。

バスはカルスを出て、アナトリアの草原を走る。ところどころで、遊牧の羊の群れに行く手を阻まれながら、小さな町に寄って人を拾いながら、バスは大地を進む。気が付けばバスは人でいっぱいになっていて、窮屈な座席で重いバックパックを抱えていた。腰が痛み出した頃に、比較的大きな街に着き、乗客が全員降りている。どうやら、ここがウードゥルのようだ。ドゥバヤジット行きのバスの乗り場を聞き、指差された方向へ歩き出す。ここで、先程のバスの乗客の中に明らかに東アジアな顔が一人いたことに気付いた。ローレンスという彼は陽気な中国系マレーシア人で、彼も一人で世界中を旅しているとのことだった。アメリカ人とマレーシア人と日本人の凸凹珍道中、ウードゥルの街でドゥバヤジット行きのバスを探して3人でとぼとぼと歩く。

ようやく見つけたドゥバヤジット行きのバスは、バスではなく、ドルムシュ(乗合用のバン)だった。今回も狭い座席に身を沈め、ウードゥルを出れば、正面に巨大なアララト山が見えてきた。ドルムシュはアララト山の脇を最高速度で駆け抜ける。道が険しくなり、再び視界が開いてしばらく走ると、1時間ほどでドゥバヤジットに着いた。3人で宿を探し回った結果、フロントでさえ英語すら全く通じず、客の気配が一切ない古びた安宿で、それぞれシングルの部屋にチェックインする。

手近な食堂を見つけて昼食をとり、イサクパシャの宮殿やノアの箱舟の遺跡(と言われているところ)等の名所を精力的に回ろうとする2人と別れ、僕は1人街歩きを選択した。ドゥバヤジットの中心部は、歩行者天国となっているメインの通りでほぼ完結する。メイン通りは店も多く、そこそこの賑わいはあるが、路地に逸れれば、街並みは途端に殺風景に変わる。人々の服装は地味で(ヨーロッパ的に洗練されたイスタンブールと異なるという意味で。)、宗教から自由なトルコにおいても、ここでは女性のスカーフの着用率は非常に高い。数年前に行ったイランの田舎町の雰囲気に似ているような気がする。

気が付けば街の反対側のバスターミナルまで辿り着いてしまった。街の郊外にあるイサクパシャ宮殿へ向かうドルムシュが停まっている。トルコ語の会話帳を片手に運転手にいつ出発するのか聞いてみたが、運転手自身よくわかっていない。ある程度の数の客が集まらないと出発しないシステムらしく、客は今のところ僕ひとりである。バスターミナルの近所にチャイハネを見つけたので、チャイを飲みながらのんびりと待つことにした。小さなチャイハネの中は、おっさんで満席。珍しい日本人が来たものだから、席に案内されて一緒にチャイを飲む。可愛らしいグラスに入った熱いストレートティーに角砂糖を3個落として、ちびちび飲むのがルールだ。一人だけ英語が堪能なおっさんがいて、クルド人だと言うので、簡単なクルド語を教えてもらうことにした。

いつも旅には現地の言語の会話帳を持っていくのだが、日本でクルド語の会話帳というものを見つけることはできなかった。クルド語は、トルコ語の会話帳の巻末に簡単なフレーズが少しだけ記載されているのみ。なので、この旅のクルド語は現地調達となる。文法が日本語に近いトルコ語と異なり、クルド語の文法はペルシャ語のそれに近い。僕が覚えたてのクルド語で挨拶をすると、彼等は必ずと言っていいほど喜んでくれる。結局、旅の間でも挨拶の他に簡単な自己紹介くらいしか頭に入らなかったけれど、これは本当に役に立った。それはそうだろう。政府によって、つい20年前まで使用が禁止されていた自分たちの言語を、遠い異国から来た人間が下手くそながらも必死に話しているのだから。

チャイハネで、地元のおっさんたちとすっかり打ち解ける。酒がおおっぴらに飲めないイスラム圏ではチャイハネが居酒屋の役割を果たしているようだ。その空間にいる人々は、たとえ初対面でも、まるで古くからの知り合いだったかのように話し、ゲームをし、よそ者を見つけたら自分の仲間に招き入れてチャイを奢る。この短い時間に3杯程いただいたが、ここでは一銭も払わせてくれなかった。全て、誰かの奢りだ。ドルムシュが出発するという連絡が来たので、夜の再訪を誓ってチャイハネを出た。ドルムシュには、小学生くらいの男の子3人組が既に乗り込んで出発を待っていた。イサクパシャ宮殿までは車で10分程なのだが、その車中で、男の子にクルド語の数字の数え方を1から20まで教えてもらう。これで買い物は完璧である。イサクパシャ宮殿まではあっという間で、覚えたてのクルド語でお礼を言ってドルムシュを降りた。

イサクパシャ宮殿は、街を見下ろす小高い丘の上にあるオスマン帝国時代の宮殿で、荒涼とした大地に個性的なドームが映える。厚い雲が腰を下ろしていて、残念ながらアララト山までは見渡せなかった。天気がよければ、どれだけ素晴らしい景色が楽しめただろう。宮殿には観光客も多く、20人程の地元ドゥバヤジット出身だという子供たちの集団に捕まって完全に包囲され、彼等の覚えたての英語で質問攻めに会った。宮殿の中が子供たちの甲高い叫び声で満たされたかと思うと、彼等を引率してきたらしい女性の先生(?)の雷が落とされ、一瞬で静寂が訪れた。世界のどんな場所でも変わらない風景の一つ。

宮殿を出ようと思ったら、外は今にも雨が降りそうな様子。宮殿の前の駐車場で1台のドルムシュが出発しようとしていたので慌てて走り寄ると、実はそれはドルムシュではなく、普通に旅行をしていた人達の車だった。ちょっと怯んだが、中から「カモン、カモン!」と声がかかったので、すっかり得意技となったヒッチハイクをきめ、街まで乗せていただくことにした。若い男女合わせて10人程の友人同士の旅行だったようだ。後部座席の一番いい席に座らせてもらい、ヒマワリの種をご馳走になる。ヒマワリ種の殻の先を前歯で割り、中身のみを舌の上に落とす高度な技術を習得する。スピーカーから流れるトルコ風R&Bにノリノリで手拍子を打ちながら、皆が歌い出し、ひとしきり盛り上がったところで、ドゥバヤジットの中心部まで戻って来た。別れ際、リンゴを強制的に手に握らされる。颯爽と去って行く彼等の車に、笑顔で手を振りながら、甘いリンゴを齧った。