この街には、さらにもう一つ別の世界が重なり合って存在している。それは、神殿の丘と嘆きの壁のある一角から見ると、ちょうど旧市街の反対側に当たる。イエス・キリストが十字架に磔になったゴルゴダの丘と、それを祀った聖墳墓教会である。神殿の丘の前に広がるムスリム街から東側へと緩やかな坂道を登って歩けば、周りの建物は徐々に小綺麗さを増していき、ヨーロッパ風味のオープンカフェなどの洒落の効いた店がやたらと目に付くようになる。キリスト教徒にとって最も重要な場所である聖墳墓教会は、仰々しい目印も無ければ、厳しい身体検査もなく、その入口は非常にわかりにくい。外側から見る限りは、何の変哲もない地味な建造物でしかない。この複雑に文化が折り重なる街にあって、彼らは敢えてその存在感を消しているのではないかと思う。
しかし、聖墳墓教会の建物の中に足を踏み入れると雰囲気は一変した。教会の入口を潜ったすぐ奥には鮮やかな色彩の壁画が飾られていて、すぐ目の前の床には、十字架から降ろされたキリストの遺体が乗せられたと言われる板状の石が置かれている。その石の上には、いつも誰か熱心な信者が跪いて祈りを捧げていた。さらに薄暗い通路を奥へと進んでいくと、教会の中心にあるのはイエス・キリストの墓であり、巨大な立方体の前に巡礼者が列をなしている。外は雲一つない青空で眩しい冬の太陽がギラギラと輝いているはずだが、光が届かないこの建物の中では、巨大な墓の陰影はより重厚さを帯びていた。キリストの墓のある部屋の周囲には、天井の低い小部屋がいくつもあって、それぞれデザインの異なる祭壇が祀られている。この教会の中で、祭壇がいくつも細分化されているのは、宗派ごとの微妙な関係を暗に示している。湿っぽく薄暗い教会の中を歩き回れば、偶像崇拝を厳格に禁じる先の2つの世界観と異なり、この艶やかさは密教的に思えた。歴史と政治の荒波に翻弄される中、彼らはひっそりと身を隠すように陰々鬱々と祈り続けてきたのかもしれない。建物の外に一歩出れば、日の光の無垢な眩しさにしばし立ち止まる。
エルサレムの旧市街は、さらにアルメニア人地区を経て、街全体を囲う分厚い城壁の外に出ると、巡礼の道はシオンの丘へと続いていた。単なる限られた一地域を示す名前だったその言葉は、イスラエル建国に至る基になった社会思想である「シオニズム」の語源になり、一方で、その精神はラスタファリに模倣され「ザイオン」という道標にもなった。現在のシオンの丘は、ユダヤ教徒にとっての聖者であり王であるダビデを祀るの墓の隣に、イエス・キリストを受胎した聖母マリアを祀る教会があり、観光バスは駐車場にずらりと並んで停車して、世界中からやって来たの巡礼者が祈りを終えるのを待っていた。
再び城壁が囲う旧市街の中へと戻り、嘆きの壁と岩のドームが見渡せる場所に向かった。クリスマスが近付くこの時期、エルサレムの人々が忙しく行き交う様子を一人で眺めていると、黒猫がじっとこちらを見つめているのに気付いた。視線が合うと、彼女はこちらに静かに歩いてやって来て、僕の膝の上に飛び乗った。生命の重みと温かみをずしりと膝の上に感じる。彼女は頭を僕の股間に埋めて動く気配はなく、僕は、居座る黒猫の背中を撫でながら、変わりゆく空の色を眺めていた。しばらくすれば日は沈み、腹は減って空気は冷えていく。そろそろ宿に戻ろうかと思ったけれど、黒猫は僕の膝の上から動くつもりはないらしい。仕方がないので、無理やり彼女を持ち上げてみると必死に抵抗し、僕の手に爪を立て指に噛み付いた。あまりの痛さに手を離せば、彼女は再び僕の膝の上に落ち着いて丸くなる。やれやれと諦め、僕はやたらと毛並みのいい背中を撫でるしかない。野良猫も、人肌が恋しくなる季節なのだ。気が付けば日は完全に沈み、周りの建物には灯りが点ったけれど、彼女は断固として僕の膝の上から動くことはなく、僕ができるのは、彼女の立てる小さく規則的な寝息を聞くことだけだった。