世界的に有名なトルコの作家であるオルハン・パムクの「雪」という小説は、カルスを舞台にしている。トルコの北東部、アルメニアとの国境に近く、トルコでも最も寒い地域の一つだ。カルスの4月の最低気温が氷点下だったことを知ったのは、日本を発つその当日にたまたま天気予報を調べたからで、慌ててダウンジャケットを丸めてバックパックの奥に詰め込んだ。
日本で買ったオルハン・パムクの「雪」は、行きの飛行機の中で読み始めて、カルス滞在中に読了した。日本語の翻訳があまりに残念な出来なのだが、小説自体の価値は非常に高いと思う。カルスの街で軍事クーデターが起こり、イスラム原理主義と、コミュニズムと、クルド人、そして貧困問題とが複雑に絡み合いながら話が展開する。アメリカやヨーロッパの作った、いわゆる世界の潮流というやつに翻弄されるイスラムの国の微妙な立場や、人々の抱く閉塞感がテーマとなっている。そして、小説の中のカルスの街は陰鬱さの象徴である。日差しが暖かで華やかなイスタンブールから、寒くて陰鬱な(と描かれている)カルスヘと飛ぶ。ただの物好きなのか、なんなのか。でも、そんな「陰」な部分に惹かれるものがあったのは事実だ。
イスタンブールの空港からトルコ航空でカルスまでは、ちょうど2時間。そして、空港での話をここに記しておかねばなるまい。イスタンブールの空港の国内線の到着ロビーの端っこに食堂を見つけた。社員食堂によくあるバイキング形式。ちょうどお昼時だったので、空港のスタッフで賑わっていた。そう、それはまるで、沖縄好きには有名な、那覇空港の空港食堂だ。往々にして、この手の店の飯は美味い。そそくさとチェックインを済ませ、食堂に入る。9.5 TLで食べ放題。メインのトマト煮込みとマカロニは、まあまあ普通という感じだったが、特筆すべきはトレイの左上に置かれた白いスープ!おそらく鳥と思われる濃厚な出汁にレモンを絞ると、抜群のバランスでコクと酸味とが口の中に広がる。まだ旅の最初だったし、どこでも食べられるだろうと思ってスープの名前も聞かずに出てしまった。しかし、その後、いろんな食堂に入ってスープを注文したのだが、ここを越えるものには出会えなかったのだ。トルコではレンティル(レンズ豆)スープが一般的なのだが、ここのスープは根本的に何かが違った。実は、この旅で食べたものの中で、一番美味しいと思ったのは、この空港食堂のスープだったのだ。それもどうかと思うけれど。
飛行機はほぼ満席である。この日はトルコの独立記念日を含めた連休に当たるらしく、帰省の家族連れが多かったように思う。どう見ても、外国人は私一人という印象。カルスの質素な空港に着陸して飛行機の外に出ると、だだっ広い平原にところどころ雪が残っている。確かに風は冷たいが、日差しが強いので、思ったほどに寒くはない。空港のボロボロのターンテーブルに乗って回ってきたバックパックを受け取り、市内に行くバスを探す。見当たらない。停車している乗合バスはいくつかあるが、書いてある行き先は別の街だ。バスに乗ろうとしている人に聞いてみたが、タクシーを使えと言われた。トルコのタクシーは決して安くはないのだが、渋々タクシーに乗車する。タクシーの運ちゃんに教えてもらったホテル。最近建て替えたらしく、小奇麗な中級ホテルといった風情だが、人の気配を感じない。この街にホテルの需要なんてどのくらいあるのだろう。結局、2泊したが、私以外には一組の白人カップルを見かけただけだった。それでも、イスタンブールからは考えられないくらい安いし(というか、前日のドミに少し足したくらいの値段だったし。)、このような寒い土地では熱いお湯がわんさかと出るのが何より嬉しい。
カルスは、アルメニアやロシア、そしてトルコが何度も奪い合った土地である。また、未だに大きな問題として残る、トルコのアルメニア人大虐殺の中心地でもあった。街を歩いてみると、これまでに来たイスラムの街とは少し違う空気を感じる。街の建物は、確かにロシア的な重厚さを感じさせる。面白いのは、ロシアの占領時代にロシア正教の教会だった建物に、ミナレットを無理矢理両サイドに取り付けてモスクとして現役で使っているところだ。もともとキリスト教の大聖堂だったアヤソフィアがいつの間にかモスクになっていたように、スクラップ&ビルドではなく、大幅な転用により独特の文化を育んでいる。この土地のたくましさが表れていると思う。
戦略上の拠点であったこの街には、北側の山の上に難攻不落の要塞があって、頂上まで登ると街の全景を見渡すことができる。下から見ていると埃っぽい小さな街に思えたが、上から眺めてみるとそこそこの高いビルもあって、思ったよりも規模が大きい。地元の子供に声をかけられ、一緒に山を下った。このあたりになると、ほとんどの人は英語を話すことができない。会話帳を片手に、あやふやなトルコ語で話しかけてみる。「クルド人か?」と聞いてみると、「トゥルク(トルコ人)!」と露骨に嫌な顔をされた。確かに聞き方が悪かったのかもしれないが、少しばかりのショックを受けた。後で聞いた話では、ほとんどをクルド人が占めるトルコ東部にあって、カルスだけはトルコ人の比率が高いとのことだった。
やはり日が沈むと冷える。せっかく持ってきたダウンジャケットを取り出し、街を歩いた。もともと人通りが多い訳ではなかったが、夜になると余計に寂しさが際立つ。ただ、人々の温かさは、それを忘れさせてくれる。たまたま通りがかった小さな雑貨屋で声をかけられた。店のおっちゃんに招かれ、温かいチャイを何杯かとお菓子をいただく。トルコ語しか通じないので、指差し会話帳のみが頼りだ。1時間くらいはそこにいただろうか。トルコ語なんてさっぱりわからないはずなのだが、不思議とおっちゃんが何を言っているのかは、わかるような気がする。翌日の来訪を誓い、お礼を言って店を出た。
夜も更け、食堂で晩飯を食べながらニュースを見ていたら、イスタンブールでは、ガラタサライがリーグ優勝してサポーターが大騒ぎをしていた。つい数時間前まで、僕はその場所にいたはずなのだが、なぜか今は遠いアルメニアとの国境近くで、キョフテのトマト煮込みを食べながら、まるで別の世界の出来事のようにそれを眺めている。