窓の外は薄くぼんやりと白み始めているようだった。視界が悪いのは靄か霧か、それとも眼鏡の曇りのせいか。ここはどこだ。そうか、パキスタンにいるんだった。そして僕はバスに乗っている。しかし、窓の外の眺めはぴたりと静止している。ということはバスは停まっているということだ。動いていないバスに乗って、僕はどこに行こうというのだ。ここはどこだ。誰かの声が聞こえる。誰かを呼んでいるらしい。誰だ、僕だ。僕が呼ばれている。ハッと目を覚ますと、バスの運転手が僕のすぐ目の前にいて、バスを降りるように促していた。僕らの他に偶然乗り合わせた日本人の女の子も叩き起こし、先にバスを降りさっさと歩く彼に、貴重品だけまとめて慌ててついて行く。外の世界は深い朝靄に覆われていたが、次第に目が慣れてきて、ここがどのような場所であるか認識できるようになる。そこは、車が辛うじてすれ違うことができる程度の幅の山道で、片側は見上げるほどに急斜面の山が聳え、逆側は深い崖となっていて谷底には川が流れている。僕らの乗ったバスの前には、さらに数台のバスが列をなしている。バスとバスの間をすり抜けて歩くと、検問があり、手動の遮断機が道を塞いでいた。
検問ではライフルを持った警備兵が僕らを待ち構えていた。立派な髭を持つ彼は、僕のパスポートとビザを確認して慣れない手つきで番号をノートに書き写し、どこから来たのか(「ピンディ」と答える)、どこに行くのか(「カリマバード」と答える)を、独特の発音の英語で質問し、最後に一緒に来たバスの運転手から車のナンバーを聞く。それだけ終わると戻っていいという仕草をしたので、バスの座席で待っていると、手動の遮断機がするすると上がり、バスは走り出した。
カラコルム・ハイウェイのうち、ここからギルギットまでの間は、過去何度か山賊の襲撃事件があったせいで、警戒が非常に厳しくなっている。ピンディを昼出発するバスがなくなったのもそのせいで、夜間にこの地域を走行することを避けるためらしい。この先、このような検問は5箇所ほどある。場所により、警備兵が自ら記入するところや、こちらに記入を求めるところなど、多少のしきたりの違いはあるものの、たいていはパスポートの顔写真のページとビザのページのコピーを渡せばそれでこと足りる。バスを降りて、彼等と話すのも気分転換に悪くはないのだが、検問のたびに2、30分以上待たされることもあって、無駄に時間がかかる要因の一つであることは間違いない。安全を確保してもらっているという意味ではありがたいのだが、ただ、このときは自分がどこにいるのかもわかっておらず、昼過ぎにはカリマバードに着くんじゃないかと、わくわくしながら窓の外を流れる景色を眺めていた。
朝靄も晴れ、日の光を受けて、窓の外の景色がくっきりと形をなしてくる。谷底に目をやると、深い緑色に濁った川がちらちらと見える。おそらくこれはインダス川だろう。しばらく走ると、崖にへばりつくように建てられた家屋が現れてきて、小さな街に入ったようだ。「ベシャーム」という標識が見えた。バスは一旦ガソリンスタンドに入り、そのまま休憩となる。時刻は朝の7時、約10時間走ったことになる。もう、半分以上は来ているに違いない。熱いチャイを飲みながらガイドブックの地図を引っ張りだす。ここベシャーム、ピンディを出て、目的地のカリマバードまでの距離の僅か3分の1のところにあった。目的地まで30時間?あまりのショックで、飲んでいたチャイが気管に入り、ゴホンゴホンと思いっ切りむせる。