チチカステナンゴ。祈りの煙は立ち昇り、寒さで僕は風邪を引く。

チチカステナンゴは、南北アメリカ大陸を貫くパンアメリカンハイウェイを離れ、その北側へと山深く分け入ったところにある。この小さな村が賑わうのは、毎週日曜日に巨大な市が立つためで、その日は近郊の村々から多くの人が集まり、さまざまな品物が村を彩るそうだ。居心地のよいシェラを1泊で切り上げたのは、この日曜市を見たいと思ったから。2012年最後の土曜日、シェラからチキンバスを2本、コレクティーボ1本を乗り継ぐ(本当だったら、チキンバスは1本でよかったはずなのだが、なぜか遠回りしたようで、まあ、当時はそんなこと知る由もない)。チチカステナンゴに辿り着いたのは、夕日が遠くの山の遥か向こう側に沈み、残った日の光も消えようとする時刻。そして、移動中から頭痛と身体のダルさに苦しめられていた。完全に風邪だ。サン・クリストバル・デ・ラス・カサスのテント生活のツケが、ようやくここでやってきたという訳だ。標高が高いため、日を失うと空気は冷え、それが身体にじわりじわりと染みてくる。

たまには少しだけいい宿を選んで、久しぶりの熱いシャワーを浴び、すっきりとしたところで夜のチチカステナンゴを散歩する。村の中心にある、白い漆喰が美しいサント・トマス教会の周りには屋台が軒を連ね、近くの別の教会の隣にあるステージでは、学芸会のような催し物が行われていて、揃いの黒いシャツを着た若者達が、やたらと陽気な音楽に合わせ、いまいちキレのないダンスを踊っていた。賑やかな日曜市のことなど微塵も感じさせない、長閑な山合の村の静かな夜だ。

日曜日の朝。いまいち天気は優れない。重い体を起こして外に出てみると、サント・トマス教会の前は、すっかり店で埋め尽くされていた。日曜市は、この教会を中心として広がっている。ここは、マヤの時代から先住民族にとっての大切な信仰の場であっただけでなく、スペインの侵略によりキリスト教に強制的に改宗された後も、この教会を中心にマヤの信仰はしたたかに守り抜かれてきたという歴史がある。教会へと上がる階段には、お供えのための花売りで埋め尽くされ、祈りための煙は途切れることを知らない。

サント・トマス教会を中心として、通りという通りが全て店に埋め尽くされる。いったいどこから集まってきたのか、色鮮やかな布や、怪しげな壺や、わけわからんお面や、用途不明な小物や、今晩のおかずまでが一様に並べられている。そして、店と店との僅かな隙間を縫うように人々が行き来する。すれ違うことも困難な細い通路を、商品を大量に積んだリヤカーが駆け抜けていくと思えば、押し売りのおばちゃんが外国人を見つけるとわんさか寄ってくる。それは、僕のよく知るアジアの雑踏に似ているように感じるが、ふと、世界中のどこであっても同じような光景が繰り返されてきたのだと思い直す。

風邪を引きながら日曜市を歩き回った僕に、3日連続でチキンバスを乗る体力は最早ない。寒い土地を一刻も早く抜け出したかった僕は、午後には、外国人旅行者向けのシャトルバスを探し、席を確保した。標高の高いチチカステナンゴから一気に山を下れば、穏やかなアティトラン湖が見えてくる。目的地は湖沿いの街パナハッチェル。移動時間は僅か1時間半だが、シャトルバスを降りると感じるパナハッチェルの爽やかな暖かさに、思わず安堵の溜息をついた。

シェラ(ケツァルテナンゴ)。ド派手なチキンバスに乗り。

朝、サン・クリストバル・デ・ラス・カサスからコレクティーボを2本乗り継ぎ、3時間ほど。南北アメリカを貫くパンアメリカンハイウェイは、ここからグアテマラに入る。その国境はたいへん混雑していた。メキシコ側では、謎の出国税295ペソを支払わないと出国のスタンプを捺してくれない。最近できたルールらしいが、295ペソを支払う窓口はひとつしかないし、またそこで対応しているおっさんの動きが何とも言えず緩慢で、旅行者が大行列をなしている。出国税を支払うただそれだけのために1時間以上待たされ、ようやくメキシコの出国手続きが完了、コレクティーボで山をひとつ越えると、グアテマラ側の狭いイミグレーションでは、入国希望者と出国希望者とが入り乱れた混沌とした様相。なんとか全ての必要な手続を終え、ようやくグアテマラの地を踏んだ瞬間、まるでアジアにいるかのような雑然とした空気に包まれた。目の前に広がるのは、怪しげな食べ物が並べられた屋台、排気ガスを吹き出して走るトゥクトゥク、凸凹の目立つアスファルト。なんだかんだ言ってもメキシコは洗練されていたのだ。国境を自分の足で越えれば、その空気の違いが本当によくわかる。そして、僕は、心の底から、そんな雑然とした空気を求めていることも、本当によくわかる。

イミグレーション前にたむろするクリスマス休暇の白人旅行者の集団に巻き込まれないように逃げ出し、少し離れたローカルバスの乗り場まで歩く。そこで待っていたのは、グアテマラ名物「チキンバス」と呼ばれる派手なペインティングを車体に施したローカルバスだ。

バス乗り場では、乗務員のガタイのいい兄ちゃんが、汗だくになりながら「ウェウェ!ウェウェ!」と行き先を叫んでいる。このバスは、ウエウエテナンゴという街を経由し、シェラまで走る。ガイドブックには「ケツァルテナンゴ」と書かれた街だが、その名は植民地化された後についたもので、地元の人は植民地前のように「シェラ」と呼ぶ。そこが今日の目的地だ。僕が乗り込んだときは、他の乗客は数名ほどだったが、すぐに満席になった。ただし、見回しても外国人は僕一人。イミグレーションではあれだけ見かけた外国人旅行者はどこへ。チキンバスを足に選ぶのは変わり者だったのか。ほどなくして満員の人を詰め込んだチキンバスは動き出し、細くくねくねとした山道を爆走する。急カーブでも速度をほとんど緩めないから、遠心力で身体が放り出されないよう、隣に座った先住民族のおばあちゃんと一緒に必死に手すりにしがみつく。2時間走ってウエウエテナンゴで少し休憩し、再び2時間かけて山を越え、シェラに着いたときは既に夜。コレクティーボを拾って街の中心部まで向かうが、よくわからないところで降ろされ、重い荷物を背負いながら灯りの少ない街を迷い歩き、適当に見つけた安宿に転がり込んだ。フロントも真っ暗、大声で呼んでみると、強欲ババアがめんどくさそうに出てきて、殺風景な部屋に案内された。長時間の移動の疲れでそのままベッドに倒れ気を失う。

寒さで目が覚めたら早朝。部屋には隙間風が吹き込んでいる。どうせこれ以上眠れないしと、思い切って宿の外に出てみると、街全体が深い霧に包まれていた。昨晩にはたどり着けなかったセントロまで朝の散歩に出かける。セントロのカテドラルの隣にあった屋台で朝ご飯を食べていると、次第に霧が晴れ、日の光を眩しく感じるようになった。グアテマラで2番目に大きな都市とは言っても、四方を高い山に囲まれ、古いコロニアル建築が残り、穏やかで過ごしやすそうだ。ときたま細い路地をすり抜けるチキンバスの鮮やかな原色に心奪われる。

ゆっくりしてもよかったのだけれど、今日のうちに次の街まで行くと決めていたので、散歩から戻り、荷物を整理して宿を出ようとすると、掃除をしていた宿のババアに呼び止められた。旅のことや、家族のこと、お互いの国のことなど、世間話をしばし楽しむ。僕の片言のスペイン語にも終始笑顔で、旅の無事を祈ってくれた。昨晩見たときには強欲面したババアだなと思っていたけれど、疲れていた僕の勘違いだったようだ。それに、今思い返してみれば、寒かったし、ベッドのスプリングは最悪だし、トイレの水は流れなかったけど、ここは素晴らしい宿だった。なぜならば、ババアと一緒にいた女の子が最高に可愛かったからだ。

さて、僕は再び派手な車体のチキンバスに乗り込み、チチカステナンゴへと先を急ぐ。

サン・クリストバル・デ・ラス・カサス。そして、サパティスタの村へと。

サン・クリストバル・デ・ラス・カサス。オアハカからの深夜バスでたどり着いたら朝7時。バスターミナルの隣の屋台で甘いコーヒーをいただき、冷えた身体を少しだけ温めて、近くの公衆電話から事前に控えておいた番号に電話をかける。カサカサという有名な日本人宿だ。何回かのコールの後、日本人の男性が出て、ベッドはいっぱいだがテントなら大丈夫と告げられた。テント?

タクシーを捕まえて、街外れの宿に向かう。石畳が敷かれた旧市街の狭い道をくねくねと走り、舗装が途切れた一角にあるカサカサ(Casa Kasa)。ドレッドヘアのお兄さんに案内されたのは、廊下の端に張られていた一人用のテントだった。サン・クリストバルの街の標高は2000mを越えるため、朝晩は非常に冷え込む。なんらかの熱量保持を全く期待できないそのテント、ここで寝た人は順番に風邪を引いているとのこと。毛布はたくさんあるし、深夜バスの疲れもあったし、細かいことを考えるのはやめた。今日から僕はテントで寝るのだ。

街を散歩する。標高が高いため、空気はひんやりとしているが、日差しが強いので次第に汗ばむ陽気になる。大きな教会や、旧市街の街並みをゆっくりと回った。民族衣装を来た人たちが多い。朝のうちはまだいいのだが、お昼過ぎから街の中心部では細い道に車や人が溢れ、なかなかに疲れる。結局、宿に戻ってビールを飲んだりと、うだうだと過ごす。

さて、ここから車で1時間半ほど山奥へ分け入ったところに、オべンティックという村がある。サパティスタ民族解放軍の自治区だ。サパティスタとは、1994年に先住民の利益を主張して蜂起した組織で、今も活動を続けている。武力を用いず、ネットを利用してメッセージを広く伝えるという手法で、オルターグローバリゼーションの象徴的な存在である。僕は、サパティスタについて語るだけの知識は持っていないので、詳しくは他で調べてもらうとして、ここから先は純粋にオべンティックに行って見てきたことだけを書く。

大量の毛布の下敷きになり厳しい寒さに耐えた翌朝。サン・クリストバルの市場でパンとコーヒーの朝飯を済ませてから、市場のすぐ裏側にあるコレクティーボ(乗り合いタクシー)の乗り場に向かった。客待ちの運転手に「オべンティックに行きたい」と告げると車に案内される。小さなボロ車の助手席には親父が1人、後部座席に別の親父1人座っていて、僕が後部座席に乗り込むとさらにもう1人親父が乗ってきて真ん中に追いやられた。狭い後部座席で親父に囲まれ、縮こまったまま車は出発し、やがて山道に入る。車窓から見える景色は穏やかで、日本の原風景を眺めているかのようだ。後部座席の親父を1人降ろしたあと、さらに小さな村をいくつか経由し、1時間半ほど走ったところで車は停まった。運転手が僕に向かって「降りろ」、と声をかける。少し緊張しながらタクシーを降りると、タクシーはさらに山奥へと走り去った。

人の気配のない山の中。きょろきょろと見回すと、右手に重厚な金属製のゲートがあり、その内側に目出し帽を被った若者が立っていた。昨日から勉強したスペイン語で、「入りたいんだけど」とたどたどしく伝えると、彼はゲートの中の建物に行き、すぐに戻ってきて「しばらく待つように」と言った。ぽかぽか陽気の中、ゲートの前の地べたに座り10分ほど待っていると、今度は目出し帽を被った別の若者が3人やって来た。名前や国籍、職業などを聞かれ、メモを取られる。質問はカサカサの情報ノートにあった通りだったので、スペイン語の受け答えもなんとかなった。最後にパスポートを渡し、再び10分ほど待つ。先程の3人組がやってきて、重いゲートを開け、僕を招き入れてくれた。

オべンティックは、斜面に沿って建物が20~30棟並んだだけの、本当に小さな村だ。ゲートから斜面を下ると、別の建物から目出し帽の年配の男が出てきた。「彼に付いて行くように」と言い、3人組は姿を消した。男が歩き出したので、慌てて僕も付いて行く。軒先では、機織りをする女性や、無邪気に遊ぶ子供をちらほら見かける。建物の壁はカラフルでメッセージ性の強い絵画で彩られ、メキシコ・シティで見たリベラやシケイロスの壁画の精神はここに引き継がれていることがわかる。斜面の一番下にあるのは小学校。クリスマス休暇のせいか、案内役の彼と僕以外に人の姿をみかけることはなかった。

ゆっくりと一周回っても15分もかからない小さな村。案内をしてくれた男は、僕がスペイン語を大して理解できないことを知ってか、それとももともと無口なのか、ほとんど言葉を発することがなかった。ゲート付近の売店まで戻ってきたところで、「これで終わりだ」言って握手をし、男は帰っていった。売店でTシャツとポスターを買い、外に出る。僕とは別に見学を終えたスペイン人の若者と鉢合わせたので、彼と一緒にコレクティーボを拾ってサン・クリストバルの街に戻った。

オべンティックは、男達が目出し帽を被っていることを除けば、山合の小さな村でしかなく、ここが世界中の注目を集めていることが俄には信じられないほどだ。遠く離れた国からインターネット経由で膨らんだサパティスタのイメージとはかけ離れた極普通の村で、極普通の人たちが素朴な生活を送っているだけ。その夜、サパティスタを含めた先住民族を取り巻く厳しい状況は、カサカサに泊まっていた日本人の写真家から聞くことができた。同じ先住民族でも、一つの村で、サパティスタを支持する者とサパティスタを支持しない者とが分断がされ、地域社会が壊れるケースがあること、そして活動を継続することの難しさ。僕も、もっとスペイン語が喋れたら、村の人達と本音の会話ができていれば、また別の姿が見えたのかもしれないが、今はぽかぽか陽気のオべンティックの長閑さが、心の中にしっかりと残っている。そして、この日の夜も廊下のテントでぐっすりと眠った。

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