2年目の3月11日と、旅に出る理由。

その前の金曜日は青森でまっちゃんと僕の酒癖悪い2TOPが結成された。市内の居酒屋を攻めまくった結果、あえなく完膚なきまで叩きのめされたようだ。翌朝気が付けば、パンツ一丁でホテルのベッドにぶっ倒れていた。口の中がカラカラで、なぜか枕元に転がっている見覚えのない銘柄のミネラルウォーターを一気に飲み干し、鈍い頭を巡らす。やはり、3軒目あたりからの記憶はない。いつもながらよく無事に生還できたものである。ただ、最近は日本酒と一緒にお冷を飲むことを学習したので、二日酔いはそれほどでもない。うん、なんとかなりそうだ。

新幹線で盛岡、そしてレンタカーを借り、東北自動車道から釜石方面へと抜けた。去年の夏の時点では花巻を過ぎた当たりで突然終わっていた釜石道が、いつの間にか延伸している。ピカピカの道路で遠野の手前まで。さらに山を越えると、海沿いの釜石は春のような陽気だった。お昼時の新華園は混雑していたが、幸運なことにカウンターの席が空いていた。無造作に置かれていた「鶴瓶の家族に乾杯」のサインを眺めながら、出汁の旨味がたっぷりの釜石ラーメンを食す。

昼食を終えたところで、大船渡の漁師さんに電話をした。待ち合わせ場所に、彼は少し遅れてやって来た。9月以来の久しぶりの訪問だったので、お互いの進捗の確認など。新しいことをどんどん進めていく漁師さんなので、話をしているだけでついつい刺激を受ける。去年の5月の大船渡への初訪問以来、紆余曲折ばかりの今の仕事。これからどうなるかはわからんけれど、北三陸を中心に仲間も増えてきたし、あとは一歩ずつ進んでいくしかないわな。この日は大船渡に宿が取れなかったので、内陸の水沢までの移動となった。陸前高田を経由する。ここも何度も訪れているが、瓦礫の片付けもかなり進んでいる。しかし、片付けが進んだ結果、広大になった更地に寂しさを掻き立てられ。

そして、山道を迷いながら走ること2時間半でようやく宿へ。盛岡に戻っても所要時間はたいして変わらなかったかもしれない。

翌日は、一関経由で気仙沼まで出て、国道45号線をひたすらに南下する。このルートは去年の9月に走ったが、悪い意味でほとんど変わっていない。2年の間に進んでいるのは他所者の忘却だけか。南三陸町歌津の復興商店街ではワカメ祭りを開催していた。こういうところでお金を使わないいかんのに、ワカメのしゃぶしゃぶやワカメ汁が無料で食い放題とかホスピタリティが物凄くて逆に困る。結果、袋入りの生ワカメを買って帰ることにした。三陸の生ワカメは歯応えが素晴らしく、すっかり病み付きである。

志津川、真っ直ぐ歩けないほどの強風の中、防災庁舎に向かって手を合わせる。

そして、石巻から女川まで走った。女川では、最近オープンしたトレーラーハウスの宿泊施設El Faroに泊まった。実は、この宿の存在を知ったのは、行きの東北新幹線の中で読んだ雑誌で。もともと仙台の宿を取っていたのだが、女川にお金を落としたかったので予約を変更した。素敵なスーツのおじさんが迎えてくれ、カラフルなトレーラーハウスが並んでいる。この日は真冬並みの気温と強風で暖房をつけていてもかなり寒い。同じ時を仮設住宅で過ごしている人たちのことを思う。

女川。海沿いは壊滅状態だが、高台に仮設商店街が2箇所できている。夕方、希望の鐘商店街を訪れた。商店街で出会ったおじさんは、「オープンしたてはよかったけど、今では外からのお客さんがすっかり減ってしまって」と嘆いていた。0から1になることはニュースバリューは高いし、人々の注目を浴びる。しかし、その1が、いつになったら2になるか3になるかの見通しなんてないなかで継続していくことが何よりも難しいのだろう。「がんばれ」という言葉はすごく残酷だ。いやいや、志を共にしている人たちには、一緒にがんばりましょうと簡単に言えるけれど、この日に安易に「がんばれ」という言葉を口にすることはできなかった。「また、来ますね」と言って笑顔でお会計をすることしか、僕にはできなかった。

3月11日。女川から仙台を越え、福島県に入る。9月は亘理~山元~新地のあたりは瓦礫は山積みで、工事車両がひっきりなしに行き交う状況だったらが、さすがにだいぶ片付いてきた。そして、南相馬の原町区へ。11月のお祭りを賑やかしに行って以来の訪問だったが、まちなかひろばの人たちは温かく迎えてくれた。仕事をしたあと、ちょうど2年のその時刻に合わせ、南相馬でボランティアをしていた仲間と海沿いの慰霊碑に向かった。大阪・石切山のお寺の尼さんの井本さんが中心となって建てたもの。「尊きすべての命に捧ぐ」という文言が刻まれており、地域を限定している訳ではないので、他所者の僕らでも手を合わせやすい。お花を買ったり、復旧工事が行き届いていない未舗装の道に迷い込んだりして、時間がなくなって焦ったのだが、慰霊碑の前には2分ほど前にたどり着いた。14時46分。その時間を告げるサイレンが響き渡る。ただの荒野になってしまったこの場所でしばらく目を閉じ、買ってきた花を手向け、まちなかひろばへと戻った。

もちろんその夜は地元の人たちと飲み、ホテルに戻ったのは朝の3時になった。地震や津波だけでなく、原発事故の三重苦を背負いながらも、この街を何とかしようとする彼等のパワーは凄い。自分のことを振り返ってみれば、数年に一度引越しをする子供時代を送ってきたので、一つの土地に対する激烈な愛情は持っていないから、どこかうらやましくも思う。地元の人が、酔った勢いで、「なんでこっちで仕事するんだ。自分の街でやれよ。俺たちは自分でやるから」と言われ、僕も酔っ払っていたのでちゃんと反論できなかった。翌日、仙台まで車を運転しながらその言葉がぐるぐると頭の中を回っていたけれど、なぜかと問われれば、そこで出会う人たちが好きだからだろうなあと考えていた。震災から2年目の被災地の現状。まだまだ酷い現実は山ほどあるけれど、人がそこにいる限り何かが生まれていて、おそらく僕は、そんな素敵な人たちと出会うために旅をしているようだった。

オアハカ、その2。ソカロと、その裏側にあるもの。

メキシコなどのラテン・アメリカの旧市街には、必ずと言っていいほど、ソカロと呼ばれる居心地のいい広場が中心にある。晴れた日には、なんとなく人々はソカロに集まってくる。穏やかな日差しを浴びながら、僕はベンチに座って本を読みながらビールを胃に流し込み、名も無き音楽家はめいめいに楽器を奏で、恋人たちはひと目も憚らず情熱的にちちくり合う。

オアハカのソカロの南側には、大きくて庶民的なメルカド(市場)がある。メルカドの中は、小さな個人商店が集まっていて、人がやっとすれ違えるほどの広さの通路が迷路のように張り巡らされている。野菜・肉・魚そして虫(!)に至るまでの食料品、使用用途がわからない日用品から、カラフルな民芸品まで、ありとあらゆるものが並べられ、場に彩りを加える。食堂が集まった一角では、肉を焼く煙がもうもうと立ち込め、焼きたてを求める人の列は一日中途切れることがない。

ところで、華やかなソカロから1歩裏側、賑やかなメルカドとそのソカロとを結ぶ通りに、武装警官が多く集まっているのを見かけた。治安の悪いメキシコで武装警官を見かけるのはそう珍しいことではないし、観光客狙いの輩の取り締まりかと思うと、どうも様子がおかしい。警官の群れを掻き分けて覗いてみると、通りを塞ぐようにして、先住民族の衣装に身を包んだ20人~30人ほどの集団が座り込みをしていた。いくつかの段幕は、その一団が“San Juan Copala”であることを示している。座り込みの周囲には、虐待の被害者らしい写真が何枚も貼られていて、カンパを集めている人がいるし、座り込みをしている人にインタビューをしているジャーナリスト風の若者もいる。その横を何も見なかったように通り過ぎる住民や観光客も、もちろんいる。

不勉強にも“San Juan Copala”について知らなかったので、日本に帰ってきてから情報を集めてみた。ほとんどがスペイン語のサイトなので、語学力の欠如から詳しい情報を得るには至っていないのだが、少ない英語の情報から理解したのはこうだ。サン・フアン・コパラ(San Juan Copala)は、オアハカ州の西部にあり、先住民族であるトリキ族が住む小さな村であること、2006年に州政府からの自治を宣言して今でもそれを維持していること、しかしながら、州政府からの住民への虐待、外国人活動家の支援に対する妨害や殺人までが半ば公然と行われているらしいこと。

メキシコ東部からグアテマラまでの地域には、先住民族が多く住んでいる。その中には、資本主義の押し付けを拒否し、自給自足的なコミュニティを営んでいる小さな村がいくつかある。そして、サパティスタに代表されるように、グローバリズムに抗するオルタナティブとして、世界中からある種の憧れと希望を集めていたりもする。しかしながら、これらの運動は、政府からの弾圧や世間の関心の低下等のさまざまな理由で、非常に危うい立場に置かれているようだ。それでも、彼らは動き続けている。遠い異国の地に住む僕でも、旧市街の美しいソカロに足を踏み入れるたび、その美しさの裏側に抱えている矛盾に目を向けないわけにはいかないのだ。この日のオアハカの街はその両面を余すことなくさらけ出していた。

オアハカ、その1。頭痛はいつも安酒のせいで。

深夜バスに乗り込んでオアハカに向かった。メキシコ・シティの巨大なバスターミナルは大混雑。旅行者が多いという訳ではなく、メキシコ人のクリスマス休暇による帰省ラッシュといった雰囲気である。人波をかき分けてオアハカ行きのバスを見つける。座席が狭く快適であるとは言い難い1等(その上のクラスのデラックスバスが満席だったこともあり、出費の抑制という意味もあり。)で、浅い眠りと覚醒とを繰り返していると、朝5時ちょうどにオアハカに着いた。外はまだ暗く、空気は極度に冷たい。バスターミナルでタクシーを拾って安宿を探す。暗いうちから宿の扉をがんがんとノックして当直を起こすも満室を理由に断られ続け、5軒目でようやく部屋を見つけた。4人用のドミトリーには僕の他には誰もおらず、非常に不人気の宿である模様。湿っぽいベッドの上には黴臭い毛布が1枚。毛布にくるまってガタガタと震えながら、日が昇るのを待った。

どうせ寒くて眠れないので、日の出と同時に街へ歩き出る。吸い込まれるような青空、古い石畳、カラフルで背の低いコロニアル風の建物、走り回るクラシックカーと、巻立つ土煙。遠い異国の我々の頭の中にあるステレオタイプなメキシコの街といった感じだろうか。超大都会のメキシコ・シティと比べて空気が格段に澄んでいるので、日の光が眩しくて、なんともこそばゆい。

この日は素晴らしい快晴。街をふらついたり、宿の中庭でビールを飲みながら読書をしたり、気がつけば暖かな日差しの下で眠りに落ちていたり、そんな過ごし方をしていると、あっと言う間に日が傾き出す。夕日を眺めに散歩にでかけよう。見晴らしのよいポイントを求めて、宿の裏手の急な坂道をゆっくり登っていると、坂の途中の家から小太りの親父が出てきて僕を呼び止めた。彼の家の軒先に座って、休憩がてら世間話をする。世間話といっても、相手はスペイン語しかわからないので、スペイン語の会話帳を介してのまどろっこしいものだ。「メスカルは飲んだことがあるか?」と親父が聞いてきた。メスカル。オアハカ名産の、竜舌蘭から作る蒸留酒である。もちろん飲んでみたいと答えると、「ちょっと待っとれ」と言い残して親父は家の中に消える。しばらくして、使い古されたコカコーラのペットボトルと小さなグラスを携えて戻ってきた。ペットボトルは透明な液体で満たされている。その透明な液体をグラスに少し注ぎ、僕に突き出した。勢いよく飲む。強烈なアルコールの味。原料に使われている竜舌蘭の風味は皆無で、むしろ工業用のエタノールに近い。アルコール度数は50度以上はあるだろう。「旨いか?」と聞かれたので、あまり語彙力のない僕は、知っているスペイン語を駆使して、「サブロッソ(めっちゃ旨い)」と答えた。

夕日を見たいことを告げると、メスカル入りペットボトルを片手に親父が案内してくれた。家の前の坂道をさらに駆け上がると、視界が一気に開ける。オアハカ出身、メキシコ史上初の先住民族から選ばれた大統領であるベニート・フアレスの像が指差す先で、親父と僕は二人並んで腰掛け、さらにメスカルをちびちびちと飲み倒した。慣れてくると、次第に旨味を感じてくるような気がするもので、ついつい進んでしまう。饒舌になったところで、職業や家族構成から、政治や宗教まで、ちゃんと伝わったか伝わらないかは永遠に謎のまま会話は転がる。気がつけば日は沈み、闇が訪れた。コカコーラのペットボトルの中身も無くなったので(!)、そろそろ立ち去ることにする。足元がおぼつかない。えらく眩しい星空だなと思ったら、それはオアハカの街の夜景だった。

「メスカルはバーで飲むと高い」と親父が言っていたことを思い出す。おそらく相当な安物か、自家製造かどちらかだろう。一人で宿に戻る途中で、屋台のタコスで腹を満たし、さてもう1軒飲みにでも行こうかと考えていると、突如強烈な頭痛が襲って来た。酒の安さは頭痛になって現れるものだが、それにしても頭痛への還元スピードが速すぎる。なんとか宿に戻り、そのまま湿っぽいベッドに倒れ込み、黴臭い毛布を頭から被った。頭痛はまずます酷くなる。部屋の外から漏れ聞こえてくる酔っ払いの楽しそうな笑い声とは対照的に、僕はそのまま気を失い、結果的には久しぶりの深い眠りに落ちた。

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