メキシコ・シティ。暦は終わるが、旅は始まり、人は踊る。

2012年の年末、マヤ暦の終わりだ!世界の終わりだ!との空騒ぎを尻目に、「終末思想くそ食らえ」と呟きながら飛行機に乗り込んだ。馬鹿な終末思想には全くもって興味がなかったので、出発の直前まで知らなかったのだが、マヤ暦のカウントダウンイベントなぞがあるらしく、メキシコやグアテマラに旅行者が大挙して押し寄せることが予想されているらしい。なにより人混みが大嫌いだし、わざわざ旅先でそんなものに鉢合わせしたくなかったのだけれど、興味がないが故に、気にもとめず旅の予定を組んでしまった自分が悪い。

そんな事情もあって、自分の中で珍しくネガティブな始まりとなったこの旅。関空から飛行機を乗り継ぐこと3本、待ち時間を合わせて24時間弱の苦行の末、メキシコ・シティにたどり着いた。ここからグアテマラを目指して東へと向かう。ただし、マヤブームの人混みを避けるために、このルートの見所の一つであろう遺跡関係には一切立ち寄らないことにした。まあ、もともと遺跡にはたいして惹かれないし、街や村を回って、ラテンアメリカの空気をじっくり味わえれば自分は満足なのである。そのため、ここから始まる旅行記には、チチェン・イッツァの話も、パレンケの話も、もちろんティカルの話もない。

メキシコ・シティ。その都市圏人口は1,000万人を越え、ラテンアメリカで最も発展した都市の一つだ。その昔は、アステカ文明の中心で、湖に浮かぶ幻想的な土地だったそうだが、この地を侵略したスペイン人により全てを破壊された。湖は完全に埋め立てられており、メキシコ・シティの中心部にアステカ時代の面影を見ることはほとんどない。今では、ソカロと呼ばれる広場を中心として、綺麗に整理された区画に、古いコロニアルな建物と、近代的な高層ビルとが混在し、巨大な街を作り出している。

メキシコ・シティを主な舞台にしたこの国の波乱の歴史は、国立宮殿のディエゴ・リベラの壁画に見ることができる。アステカの繁栄、スペインの侵略から革命までを一気に描いた密度の濃く且つ巨大な作品で、その迫力はとても写真に収まりきらない。リベラの「メキシコの歴史」に代表されるこれらの壁画は、革命直後の低い識字率のなかで、その革命の意味を必死に伝えようとした活動のなかで生み出されている。この街にも多くの作品が残されていて、民衆へと訴えることが目的であるために、美術館に高い入場料を払う必要もなく、極一部の金持ちどもに専有されることもない。そのほとんどが公共の建物や、屋外に置かれていて、街に彩りを加える。

壁画で有名なのは、シティの中心部からメトロバスに乗り、30分ほど揺られて南へ行ったところにあるメキシコ自治大学である。大学の建物自体がキャンパスとなって、シケイロスやオゴルマン等の壮大な作品を見せてくれる。ちょうどこの日は穏やかな日曜日、学生の姿をほとんど見かけることはなく、犬の散歩をする人や、ボールを蹴る子供が数名いただけ。それはそれはのどかな「芸術的空間」であった。

中心部からみて、メキシコ自治大学とは逆方向、メトロバスで北へ向かうとグアダルーペ寺院がある。もともとはアステカの聖地であったこの場所に、スペインから持ち込まれたキリスト教が混ざり合い、褐色のマリアという新たな信仰対象を生み出した。植民地の、ただ宗主国の文化に侵略された訳ではなく、宗主国の文化を取り込みながら新しい価値を生み出すというたくましさを垣間見る。日曜日は、参拝客でごった返していた。みなスマホやカメラで写真を撮りまくっているし、厳かな信仰の場というよりは、楽しい観光地といった雰囲気。

治安が悪いと聞いてはいたものの、普通に街を歩いたり、メトロに乗ったりするには何の問題もない。この日、旧市街はクリスマスムード一色で、昼夜問わず繁華街には人が溢れていた。夕闇が迫ると、旧市街に点在する公園では、スピーカーの許容を超えた音量でサルサが流れ、ひどく音が割れたビートに合わせて男女が、手を取り、抱き合いながら、くるくると踊っていた。そこでは、マヤ暦の終わりの悲哀などは皆無で、人々はあっけらかんとクリスマスを楽しんでいる。世界は、糞のような終末思想論者の期待通りに、そんな簡単に終わるものじゃない。時差でボケボケの頭の中で爆音のサルサが強烈に響く。

まあ、正確に言うならば、メキシコ・シティの起源はアステカであって、そもそもマヤではないとか、まあ、そんなことを云々。

インドネシア、ジャカルタ

インドネシアの首都・ジャカルタでは、ジャラン・ジャクサという街に滞在した。ちょうどこの日はイスラム教の祝日である犠牲祭の前日にぶち当たり、通常であれば車で30分の道のりだったのだが、4時間以上かけても未だ目的地につかないという壮絶な大渋滞に巻き込まれた。道路一面を埋め尽くしピタリと動かない車の列からは、焦りや怒りは既に通り越し、諦めに似た感情が渦巻いている。せかせかと生きていては、この国ではやっていけない。のんびり行くのだ、のんびりと。30 kmを4時間かけて。

ジャラン・ジャクサは、その昔は安宿が多く、貧乏バックパッカーの溜まり場として栄えたようだが、今ではすっかり寂れていて、営業しているのかどうか怪しいホテルやレストランも多く見かけられる。外国人の姿もそう多くはない。バリのデンパサールも国際線が多く発着しているので、よっぽどの理由がなければ、巨大都市・ジャカルタよりも、穏やかなバリをゲートシティとして選ぶのだろう。急激に人とお金が入り込んできた現在のジャカルタは宿命的な過渡期にあり、矛盾がそのまま混沌という形でさらけ出されている段階のように思う。

それでも、ジャラン・ジャクサの大通りから一歩足を踏み入れると、一気に時間軸がずれる。人がすれ違うのがやっとの細い路地が碁盤の目のように張り巡らされていて、小さなモスクがあちらこちらに点在している。巨大な張りぼてのコンクリートばかり見上げていたので、生活感溢れるこんな路地を歩くだけでホッと一息ついた。犠牲祭は、イスラムの大切な祝祭だ。家々の軒先では、犠牲祭の食事のために、男たちが忙しく山羊や牛を捌きたおしている。捌かれた肉は、貧しい人々に与えられる。捌かれた山羊や牛から流れた血の鮮やかな赤い色が細い路地を染めるなか、子供たちは外で走り回り、ネコは日影であくびをする。急激な変化が著しい今のジャカルタで、僕が唯一落ち着くことができるのは、昔から変わらないであろうこんな風景を眺めているときだった。

インドネシア、クパン

とにかく広いインドネシアの東に位置するティモール島。ここの島からさらに東に行けばパプアで、南に行けばオーストラリアのダーウィンである。だから、ティモールは、アジアの文化圏の最果ての地と言ってもいいかもしれない。10月。滞在したのはティモール島の中心となる街クパン。小ぢんまりとした空港を出れば、ジャカルタやボゴールのあるジャワ島とは打って変わり、鮮やかに晴れた空と乾いた大地が広がっていた。こちらの雨季の始まりは、ジャワ島から1、2ヶ月遅れるうえに降水量も比較的少ない。海から吹く強い風がなかなかに心地よく感じる。

ティモール島の東半分は、10年ほど前にインドネシアから東ティモールとして独立した。現地の方から話を聞くと、島の西端に位置しているクパンは、東ティモールとは最も距離が離れているといえども、当時は暴動に巻き込まれたらしい。その原因は、独立運動からなぜか飛び火したイスラムとキリストの宗教的な対立だったという。そもそも、たった一つのティモール島を、東ティモールに属する東側と、インドネシアに属する西側とに分け隔てたものは、植民地時代の統治国がオランダだったかポルトガルだったかの違いに過ぎない。植民地返還が遅れた東側に対して、スハルト時代のインドネシアが軍事的に押さえつけたことから反発が生じ、さらに、カソリックとプロテスタントという統治国の宗派の違いが溝を深めた。勝手に島を分割することがなければ、そもそも植民地支配がなければ、こんな馬鹿げた対立は生じていなかった。支配が形式的に終わった後も、その爪痕は今でもくっきりと残っていて、死ななくていいところで人が死んでいる。この土地ではほんの10年前に、そして今も世界のいたるところで。

もちろん、現在の穏やかなクパンからは、そんな悲しい事実を想起させられることはない。狭く凹凸の激しい道路を埋め尽くす車やバイクに少し辟易しながら街を歩けば、ギラギラと照りつける太陽の下で人やネコはのんびりと暮らしている。海沿いの通りでは、夕方になると一面に屋台が立ち並ぶ。鮮度を若干心配しながら、無造作に並べられ魚の中から好きなものを指差すと、甘辛いタレをたっぷりつけて焼いてくれる。

魚をアテにビールを飲んでいると、10人くらいの若者の集団が通りかかった。一見したところ、年齢は10前後から10代後半で、全員が粗末な服に身を包み、足元はボロボロのサンダルか、もしくは裸足だが、年上の若者は鮮やかな色のモヒカンに古い鋲ジャン(インドネシアで!)という典型的なオールド・スクール・ハードコア・スタイルをしている。大事そうに抱えているのはウクレレサイズのボロボロのアコースティックギター、別の若者は手作りのパーカッションを携えている。彼らは、僕らの席から少し離れたところで立ち止まり、僕らと決して目を合わせることなく演奏を始めた。モヒカンが小さなアコギを弾きながら歌う詞は、「『セレブレティ』は『ファ○キン』で且つ『シ○ト』である」というフレーズを繰り返したもの。3コードの初期パンク風ロックが小さなアコギと軽い太鼓で奏でられるので、どこか間が抜けて陽気に響くが、その中身は直情的なレベル・ミュージックなのであった。隣に座っていたバカンス中の白人旅行者たちも含め、きっと僕らに向けられた歌なんだと思う。曲が終わると、その集団にいた最年少の子がお金を集めに来たので、少額の紙幣を渡す。モヒカンは、最後までこちらに視線を向けることなく、新しい演奏場所に向かって夜の街に消えていった。明るい日差しと美しい海に彩られたクパンとは真逆の、貧しさ、やり場のない怒り、そして、その全てをぶつけた音楽と。あのモヒカンの眼には、いったい何が映っていたのだろう。

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