インドネシア、ボゴール

インドネシア。混沌という言葉をそのまま体現したような巨大都市・ジャカルタから数十キロ内陸に入ったボゴールは、世界最大の植物公園が有名で、元大統領の別荘もあることからわかるように、ジャカルタより遙かに過ごしやすい郊外の街である。

ジャカルタの空港からボゴールまではジャカルタの中心部を貫いた高速道路で繋がっていて、スムーズに流れれば1時間で着くのだが、このルートは慢性的な混雑に見舞われている。場合によっては空港から5時間かかることもあるとのことだった。1時間に10kmという計算なら僕のジョギングの方がよっぽど速い。ジャカルタは今や、東京に続き、都市圏人口は世界2番目となっているのだが、増え続ける人口に対してインフラの整備が全く追いついていないから、ジョギングが車に勝つことになってしまう。空港で捕まえたタクシーの運転手には、最初3時間かかると脅されていたが、ちょうどこの日は世間的には休日だったこともあって、すんなり1時間でホテルに着いた。

とは言いつつもい、ボゴールも中心部は人や車で溢れ返っている。ナシゴレンやミーアヤムの屋台や、暇そうに客待ちをしているサイクルリクシャーや、安物のギターを片手に演奏してチップをねだる若者や、学校帰りで元気が有り余っている子供たちを掻き分けながら街を歩いた。空気は水分をたっぷりと含んで肌にべったりとまとわりつく。もうすぐ雨季がやってくる。

トルコ、イスタンブール、その3。旅の終わりに。

イスタンブールに戻ってきた。ネムルトダーゥの翌朝の早い時間にカッパドキアへと向かう二人と別れ、一人寂しくキャフタからシャンルウルファへとバスで戻り、さらにその翌日にシャンルウルファの空港からイスタンブールへと飛んだ。素朴な東トルコにすっかり慣れ切ってしまっていたので、イスタンブールの街のお洒落具合に少々緊張する。空港から地下鉄とトラムを乗り継ぎ、スルタンアフメット地区で安宿を確保し、さっそく散歩に出かけることにした。イスタンブールは、ボスフォラス海峡によってヨーロッパとアジアとに分け隔てられている。観光客の多いスルタンアフメット地区はヨーロッパにあって、そこから程近いエミノニュの埠頭からアジアに行く連絡船が頻発する。連絡船に乗れば、僅か10分の航海でヨーロッパとアジアを行き来することができるのだ。当然、僕の足は自然とアジア側へと向かうのであった。

アジア側にあるユスキュダルとカドゥキョイを散策する。アジア側といえども、もちろん、それだけで風景が劇的に変わることはないのだが、観光客の姿は比較的少なく、地元の人が集う下町といったところだ。カドゥキョイの少し北には、長距離の鉄道の終着点となるハイダルパシャ駅がある。アジアから鉄道で旅してきた旅人は、この駅に降り立ち、連絡船でヨーロッパ側に渡るのだろう。ボスフォラス海峡の対岸に霞むヨーロッパを眺めたときに、どんな感慨が沸くのだろうか。そういえば、10年前に初めてインドを一人で旅行したとき、知り合った旅人から聞いたシルクロードの旅の話がなぜだか今でも鮮明に記憶に残っている。中国、ウイグルからキルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタンからイラン、そしてトルコまで、乾いた大地でさんざん埃にまみれた後で、イスタンブールからボスフォラス海峡を目の前にしたときの感動。東トルコを駆け抜けてきた僕にも少しだけ共有できるかもしれないと思いながら、久しぶりのビールを思い切り流し込む。

トルコ最後も、サッカーな夜だった。ベシクタシュとフェネルバフチェとのイスタンブール・ダービー。イスタンブールに本拠地を構えるガラタサライ、ベシクタシュ、フェネルバフチェのうち、アジア側にあるのはフェネルバフチェのみだ。この日の試合がベシクタシュのホームだったこともあって、アジア側の中心地であるカドゥキョイの飲み屋街はどの店も試合の中継を流していて、道いっぱいに溢れたフェネルバフチェのユニフォームを来た人々は誰も彼も試合に集中している。僕も、寒くなってきたにも関わらず、ジャケットの前のジッパーを開け、フェネルバフチェのチームカラーの黄色のTシャツを見せびらかす。落ち着いて観戦できそうな店に入り、ビールを飲みながらテレビの中の戦況を見つめる。

試合の内容自体は、残念ながら、ディヤルバクルで見たトラブゾンスポル・ガラタサライほどのエキサイティングなものではなかった。フェネルバフチェが再三攻めこむものの、ベシクタシュの堅守を崩すことができない。前半終了間際にベシクタシュのカウンターが決まり、街を埋め尽くした黄色の集団は意気消沈。後半になってもベシクタシュの守りは固くなるばかりで、フェネルバフチェに決定的なチャンスはほとんど訪れず、皆、頭を抱えるばかり。後半も30分を回ると席を立つ客も増えてくる。僕も、宿を取ったスルタンアフメットまで戻らなければならないし、連絡船の時間も不安だったので、2杯目のビールを飲み終えたところで宿に帰ることにした。港に行くと、ちょうどヨーロッパ側に向かう連絡船が出航することころ。慌てて船に飛び乗った。連絡船の甲板から感じる夜の空気は5月といっても物凄く冷たい。

ヨーロッパ側に戻り、スルタンアフメット方面へ行くトラムに乗り込むと、そのトラムは白と黒のユニフォームを来たベシクタシュサポでいっぱいだった。慌ててジャケットの前のジッパーを閉めて黄色いTシャツを隠す。満員のトラムの中で、陽気にベシクタシュのチャントを歌い出す彼らの様子を見ただけで今日の試合の結果は予想がつく。まあ、こんな日もあるさ。

翌日。いよいよ帰国の日。フライトまでの時間は、再びアジア側のカドゥキョイを歩いて過ごすことにした。たまたまふらふらと歩いて見つけた雑居ビルの中に本屋街があった。ふと思い立ってクルド語の会話帳がないかどうか聞いてみる。何軒か回って、最後にクルド語―トルコ語の会話帳を見つけることができた。もちろんトルコ語もたいして理解していないので、日本語―トルコ語の会話帳と合わせて購入した。日本ではクルド語の本なんて全くもって見たことがないから、これはきっと貴重なものだ。とにかく、クルドの人々と話していて抱いた、それぞれの思いが伝わらないもどかしさも、これでほんの少しは解消できるかもしれない。またあの地を訪れる機会に巡り会えるなら。

連絡船で深い霧に包まれたヨーロッパ側へと戻り、最後の食事となったサバサンドを思いっ切り頬張った。帰国のフライトの時間まであと少し。旅の魔法が間もなく切れる。さて、次は、どこで、どんな出会いをするのだろう。

トルコ、ネムルトダーゥ。

運良く同じ宿に居合わせたヘムルートとエマ。彼らのレンタカーに同乗し、シャンルウルファからネムルトダーゥを目指した。朝9時にホテルウールを出発。ネムルトダーゥへの起点となるキャフタへは約3時間。前日の空は厚い雲に覆われていたが、この日は奇跡的に天気がよく、抜けるような青空が広がっている。途中、小さな街をいくつか越えた他は、アナトリアの大地を貫く1本の道をひたすら走る。見晴らしのいいところで車を停めて、お昼ご飯をいただいた。彼らが買っておいてくれたトマトやニンジンを生のまま豪快に齧る。何の変哲もない単なる野菜なのだが、これがやたらと美味かった。

道に迷ったりしながら昼過ぎにキャフタに着いた。ネムルトダーゥは、ここから公共交通機関の一切ない山道を3時間以上走ってようやく辿り着く秘境の中の秘境である。キャフタに一泊するというエマとヘルムートは、適当な安宿にチェックイン。僕は、夕方のバスでシャンルウルファまで戻るつもりだった。エマは、「部屋の値段がガイドブックに書いてあるよりも全然高い!」とぷりぷり怒っている。ホテルのスタッフは、悪びれる様子もなく「最近建て替えたもんでね」と澄ましている。よく見る旅先の光景。今日も平和な昼下がりである。

彼らがチェックインを終えるのを待って、いよいよネムルトダーゥまで走り出す。誰もロードマップを持っていないし、もちろんカーナビなんてあるわけないし、頼りになるのは、僕の持っていたLonely Planetのアバウトな地図だけだという状況。途中、いくつかの遺跡に立ち寄る。カラクシュという遺跡は、動物の彫刻が上に乗っかった柱が東西南北に建っていて、真ん中が人工的な丘になっているミニ・ネムルトダーゥといった様子の墓である。少し高台からの眺めても人里を臨むことはできない。空の深い青と荒涼とした大地にひっそりと佇んでいる遺跡で、旅人がたまにやって来て、また去って行く。

さらに奥に進んでいくとジェンデレ橋、その先から一気に山を駆け上がったところにあるのがアルサメイア。コンマゲネ王国の神殿があった場所には、国王とヘラクレスとが握手するレリーフが残っていて、エマちゃんは全裸のヘラクレスの胸筋がお好みのご様子だった。いやいや、そんなポーズを取れとヘムルートが囃し立てたので乗っただけだ。ヘムルートが連発するどうしようもない親父ギャクと、キレながら突っ込むエマの素敵なコンビネーションの完成度が高過ぎて、道中全く飽きることはない。

さらに山奥へと進む。急勾配且つ舗装されておらず、車1台ギリギリ通れる細さ、踏み外したらすぐ崖を転がり落ちるような山道を登り切り、5月だというのに雪が残る高さまで上がってきたところで、ようやく見えてきた。2000年以上も前に人工的に作られた、こんもりと盛り上がったネムルトダーゥの山頂が。最寄りの駐車場に車を置き、ここからは歩きで頂上を目指す。キャフタの街からたっぷり3時間。眼下に広がる風景は、この一帯が宙に浮いているのではないかと錯覚させられるほど。瓦礫の地面を踏みしめ、20分かけて登ると、巨大な首のない彫刻と、地面に並べられた生首が迎えてくれる。

ネムルトダーゥは、瓦礫を人工的に積み重ねた頂上、そして、その頂上を東側と西側とから守るように彫刻が立っている。比較的整然とした東側に対し、雪渓を越えて奥を回り込んだところにある、西側は、無造作に生首が放り出され、いくつかは雪に半分埋もれたままだったりする。やや斜めになりかけた日の光が生首を照らし、影が生々しく彩られる。この遺跡を作ったと言われるコンマゲネ王国が亡くなってから2000年もの間、誰も来ない山奥で待ちくたびれたのか、はたまた騒々しい観光客に辟易しているのか。どちらにしても、当たり前だが石のように固く険しいその表情からは、栄華を誇った王国が、天国に近いところに建造物を作ったという優越感というより、徹底的に人里を嫌い離れなければならなかった陰鬱さが感じ取られた。

日が暮れる前に山を下る。来た道とは少し違うルートを選択した。小さな村をいくつか通り抜ける道。お手伝いをしてきたのだろうか。たっぷりの牧草と一緒にロバの背に乗った子供たちとすれ違う。車を停めて話しかけてみる。外国人が珍しいのか、少し恥ずかしがりながらも、素敵な笑顔を見せてくれた。ガイドブックにも載っていない小さな村とそこに住む人たち。そんな村々だけを巡る旅というのもいつかしてみたいと思う。

キャフタに戻ったのは19時。シャンルウルファへの最終のドルムシュ(乗合バス)の時間は18時だったらしい。なんと。ネムルトダーゥでゆっくりし過ぎて終バスを逃したのであった。という訳で、急遽キャフタにて1泊決定。結局、ヘルムートとエマと部屋をシェアすることになった。最後の最後まで世話になってしまいました。本当にいい旅ができた。どうもありがとう。この素晴らしい地球の上のどこかで、きっとまた会えることでしょう。

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