2012年、トルコ、アクダマル島。

昔、ある島に敬虔なキリスト教徒の両親とその娘が住んでおった。娘は、島の外のイスラム教徒の男と恋をした。しかし、娘の両親は、敬虔なキリスト教徒である故に、娘と男が一緒になることを許してくれなかった。愛し合った二人は駆け落ちの段取りを整え、ある晩に決行する。夜の闇に紛れ、男が船で島まで娘を迎えに行く。ちょうどそのとき、突然の嵐で船は沈み、溺れ死んだ男の亡骸だけが島に辿り着いた。その亡骸を見つけた娘は、ショックで自らの命を絶ってしまう。父親が駆けつけた時にはすでに遅い。あ、そうそう、その娘の名前はタマーラといって、父親は心臓に持病を抱えている設定。娘の亡骸を見つけた父親は、ショックのあまり心臓発作を起こし、「アグッ、タマーラ・・・」と言って絶命したそうだ。それから、その島を「アクダマル島」と呼ぶことになったそうな。
・・・結局ダジャレかよと脱力感に襲われるこの昔話は、ドゥバヤジットで仲良くなった八百屋のおっさんから聞いたものだった。実際にそんな家族が住んでいたかどうかは知らないが、アクダマル島はワン湖に浮かぶ無人島で、アルメニア様式の教会が有名だ。

宿の部屋をシェアしているニコが帰って来たのは夜遅くだった。彼は翌日ワン湖の反対側にあるタトワンという街まで船で抜けるという。私はワンでもう1泊して、アクダマル島まで足を伸ばすつもりだが、この宿にもう1日滞在するという選択はあり得ないので、翌朝に宿を変えることにしていた。カルスから旅を伴にしたニコとも、今夜でお別れである。彼は世界中を巡っているらしいので、きっとまだ旅の途中だろう。よい旅を。

早朝に宿をチェックアウトし、前日のうちに目を付けておいた安宿に変えた。先の宿の半額以下の値段、共同のシャワーも(悪臭が凄まじいものの)ちゃんと備わっている。とりあえず、荷物を置いて朝食へ。なぜだか知らないが、ワンは朝食が有名なのだ。「Kahvati(朝食)Caddesi(道)」という名の通りまである。その路上には、名前に違わず、朝食店が軒を連ねている。焼きたてのパン、ハチの巣付きの新鮮なハチミツ、メネメン(トマト煮込みの卵とじ)と温かいチャイ。誰が言い出したのか、この街での朝食は「世界最高の朝食」とのこと。残さず美味しくいただいた。

アクダマル島へは、ワンからドルムシュに乗って1時間のゲワシュという湖沿いの小さな街まで行き、そこからアクダマル島へ渡る桟橋へ向かうドルムシュに乗り換える。まず、ワンからゲワシュに向かうドルムシュを探すのに苦労した。地球の歩き方やLonely Planetの案内も適当なうえに、道行く人に聞いても、英語が話せないだけでなく、人によって言うことが違う。結局、よくわからないまま間違ったバス停に連れて行かれ、直射日光の下で1時間近く待ちぼうけをくらい、さすがにこれはおかしいと感じて一旦中心部まで戻る。別の人に聞いた方向へ歩くと、ぜんぜん違うところにゲワシュ行きドルムシュが大量に停まっているのを発見した。既に2時間以上ロスしているが、まあ、よくあることだ。ゲワシュに行ける喜びだけを単純に味わっていればよい。

ドルムシュに乗り込むと、これまでの疲れでうとうとしてしまって、気付いたらゲワシュだった。降りたところでチャイを飲んでいると、アクダマル島への桟橋方面へ向かうドルムシュがちょうど発車しようとしていたので、熱いチャイを慌てて胃の中に流し込み、急いで乗り込んだ。5分ほど湖沿いを走ったところで降ろされる。ボートが3隻停泊した小さな桟橋と寂れたレストランの他は何もなく、たまに大きなバスが土煙を巻き上げながら通り過ぎていく。

桟橋に行くと、外国人は明らかに私一人で、船員らしき人の他は誰もいない。彼に聞いてみると、16人(!)集まらないと出航しないという。貸切りは120TL、なかなかのボッタクリ価格となっている。残り15人がやって来るという奇跡までひたすら耐えるしかない。堤防に腰掛けて湖をボーッと眺める。今日は天気がよい。ポカポカと温かいお陰で時折意識を失いながら(うとうと)、何かが起こるのを待っている。

しばらくすると、ドイツ人のご夫婦がやってきた。彼らも困っている様子だったので、もう少し待って誰も来なかったら貸切りをシェアしようと約束する。結局1時間は待っただろうか。客が新たに来る気配すらないので、船員と交渉して120TLを90TLにまけさせ、ご夫婦との割り勘の1人30TLで手を打った。貸切りのボートが今まさに出航しようとしたところで、明らかに船員には見えない人間が数人わさわさと乗り込んでくる。どこに隠れていやがったこのくそジジイ。まあ、これは予定調和の至極当たり前の光景でもあるわけで。

さて、アクダマル島は、アルメニア教会を中心に杏の花が咲き乱れる小さく美しい島だった。この日の天気は最高で、空は抜けるように青く、深く緑色に沈んだ湖とのコントラストが眩しく、思わず目を細めた。教会の裏側の小高い丘に一生懸命登れば、島の全景だけでなく遠く雪山まで綺麗に見渡すことができる。静寂が支配する島の周囲をゆっくりと歩き、その景色をしっかりと目に焼き付け、ボートで陸側の桟橋に戻った。ドイツ人のご夫婦はレンタカーで旅をしていたので、ゲワシュの村まで乗せていただくことになった。ゲワシュに戻るためにヒッチハイクを覚悟していたので、これは助かる。彼らはこれから近郊の遺跡を回るというので、誘っていただいたものの、僕はゆっくりと街歩きをしたかったので申し訳ないがお断りした。ほんと感謝。

ドイツ人ご夫婦に車で送っていただいたこのゲワシュは本当に小さな村だった。最初はすぐにワンに戻ろうかと思ったけれど、背後に絶壁のように聳えた雪山があまりに美しかったので、村を少し歩いてみることにする。村のメインだがシンプルな通りには大きなモスクがあって、青い空に突き刺さるミナレットが大迫力だ。こんな小さな村だと外国人は珍しいのだろう。道を歩いているだけで、数軒あるチャイハネのあちらこちらから声をかけられ、チャイを次々にご馳走になる。コミュニケーションはトルコ語の会話帳と覚えたてのクルド語の数フレーズのみを駆使。こちらのテーブルへ、いやいやこちらのテーブルへ、俺のチャイを、いやいや私のチャイを飲めや飲めやとたいへんなことに。結局、一銭も払わないままにお腹がたぷたぷになるまでチャイをいただいた。ガイドブックには載っていなくても、こんな素晴らしい村があるということを、自分自身が忘れないためにも、きちんと記しておきたかった。

飯舘村・南相馬市。震災から1年半の節目で。

いんちきジャーナリスト気取りで、先日訪れた福島のことを書こうと思っているのだが、どうしたことか一向に指が進まない。とりあえず写真だけ整理してFacebookに上げてみて、その写真を眺めながら現地で思ったこと感じたことを文章にする作業に取り掛かっていたのだが、書いた文章を読み、なんて表現力がないんだろうと溜息をつきながら、今日もまた削除と入力を繰り返している。

まあ、いいや。書こう。酒の力も借りたことだし。

震災以降、定期的に三陸に足を運ぶ機会ができているのだが、何回も訪れるうちに自分の感覚が麻痺してくるのがわかる。地盤沈下によって海に沈んだままの堤防や、民家が建っていたはずのところに残っている基礎部分や、鉄骨が剥き出しになったまま放置された建物や、積まれたままの巨大な瓦礫の山。そんな光景に見慣れてしまった自分がいるのに気付く。その一方で(もちろん、街によって早い遅いはあるけれど)、仮設の商店街や屋台村は確実に充実してきていて、コミュニティがしっかりと地域に根を下ろしている。そこで出会う人達の話を聞けば、みんな前を向いていて、こちらが逆に勇気をもらうことも多い。自分も、何かのお役に立てるのであれば、今できる仕事を精一杯がんばろうと思っている。


   (↑岩手県大船渡市三陸町、1年半たってもそこは瓦礫の山)

しかし、車を飛ばして福島の飯舘村で見たものは、それとは真逆だった。震災の被害なんてほとんどないから、山の間にあるのは、昔からほとんど変化もないだろう素朴な集落。しかし、そこには「人」がない。車を降りて「帰還困難区域」となった街を歩けば、稀に行き交う乗用車や、やたらと数の多いパトカーが通り過ぎる雑音を除けば、圧倒的な静寂に包み込まれる。集落を少し離れると、雑草が覆い茂った土地が広がっているが、そこは本来なら野菜や米を植えていたはずに違いない。ところどころ土の表面が削られており、除染作業に四苦八苦していることが伺える。「人」が離れてから経ったのは1年半の月日だけ。

青森・岩手・宮城の被災地域も渡り歩いた上での決定的な違和感。それは、復興の中心となるべき「人」の非存在ということだ。飯舘村の翌日に訪れた南相馬市の小高区でも同じことを感じる。南相馬市小高区は福島第一原発から20km圏内にあり、数カ月前にようやく警戒区域が解除された地域に当たる。9月半ば、まるで真夏のような猛烈な日差しの中で車を走らせる。国道から少し海沿いに行ってみると、道路は崩落したまま放置されていて、通行止めの標識だけが目立っている。表面がボコボコの道路、干乾びた田んぼの中には誰かの車が突き刺さっている。休日だったこともあるだろうが、復興どころか復旧のための工事もほとんど行われていない。サギやカラス等の肉食の鳥が傍若無人にに振る舞っている。

小高区の山側にある住宅地は、揺れで大きく傾いた建物が手付かずのまま放置されている。人の気配のない街を走り、JR常磐線の駅を見つける。打ち捨てられたままのその駅では、1年半分の雑草が覆い被さっていた。眩しい日差し、美しいはずの草木の緑。でも、そこには何かが確実に欠落している。

南相馬で一泊して、たまたま入った焼き鳥屋。知り合ったお父さんは、一緒に住んでいたお孫さんが遠くに避難しているそうだ。別のお父さんは、20km圏内の小高から来て、今は仮設住宅に住んでいるとのこと。瓦礫の撤去のボランティアをしているお兄ちゃんとも一緒に飲んだ。焼き鳥は美味しいし、お酒は美味しいし、それはそれで凄く楽しいのだが、なんだろう、このアンバランスさ。放射能の危険性というよりも、自分にとっては、震災にプラスされた原発事故によって引き起こされたコミュニティの分断・崩壊が何よりも重くのしかかる。

旅の移動中、七尾旅人の“Little Melody”をずっと聞いていた。同世代ということもあって、デビュー当時から聞いてきた歌い手だが、自身の内面に深く入り込むような音楽をやっていた彼が、外とのコミュニケイトの塊のようなアルバムを出したこと自体が驚きだった。聞きながらふと思い出したこと。7月に坂本龍一がプロデュースしたNo Nukes 2012というイベントで、七尾旅人がライブ中で残した「福島のことを考えたら、単純に“No”とは言いたくないんだよね(うろ覚え)」という言葉の真意が、少しだけだけれども、わかったような気がする。その場所でずっと生きてきて、現に今も生きている人の姿を見ると、“No”という一言では零れ落ちるものがたくさんあることを感じる。

だからというわけではないのだけれど、11月3日土曜日、もう一度南相馬に行って、ちょっとおもしろおかしいことをやろうと思っています。それは糞ほどに微力でしかないのだが。でも、今の自分の気持ちは、“Little Melody”に収録された“Memory Lane”、最後の、七尾の「イェー」という希望に満ちた叫びと共振しているものと勝手に思っている。まあ、センチメンタルな酔っ払いの勘違いならそれで構わないけれど。

2012年、トルコ、ワン、その3。

一旦Nicoと別れ、ホテル・バイラムの跡地を訪れた後で、一人で湖の畔にあるワン城に向かった。ワンの中心部から路線バスに乗る。ここでの路線バスは、運転手と車掌の2人で運行されている。夕方、人がごった返すワンの中心部のバス乗り場で、「ワン城に行きたい!」と周囲の人達に叫び続け、教えてもらったバスに乗り込むと、少年のような車掌が喜んで迎えてくれ、運転手の隣の特等席に座るよう促された。バスは街を抜け、郊外の住宅地に至る。車掌が肩を叩いて外を指差すので、そちらを見ると、更地に仮設住宅やテントが多く建ち並んでいた。このあたりは地震の被害が相当大きな地域だったようだ。

ほどなくして、バスを降ろされた。目の前には巨大な岩山が聳え、その岩山の尾根に沿うように古い砦が建てられている。入り口を探して彷徨っていると、道端で遊んでいた子供たちに声を掛けられた。年上の女の子と、小さな男の子2人の合計3人組。案内してくれるというので、のこのこと付いて行ってみると、山の周囲に張り巡らされた鉄条網が少しだけ緩んだところを潜り、切り立った斜面を登って行く。カモシカのように駆け上がっていく子供たちの後をヒーヒー言いながら追いかけると、美しい景色が広がっていた。前方にはワン湖、後方にはワンの街、その向こうには山が雪を抱いている。

ここは絶好の散歩コースになっているようで、地元の若者や家族連れで賑わっていた。ただ、ワン城の頂上にはこちらからは上がることはできないようだ。一旦、山を降り湖側に回り込む。子供たちとは山を降りたところでお別れ。例えばインドでは、ここで必ず「マネー!マネー!」と囲まれて帰してくれないところだろうが、手を振ってバイバイと言うと、子供たちも手を振り返し、その瞬間から彼らの興味は他に移っていた。

湖側の別の入り口から山を登る。夕日が次第に空を赤く染めていき、湖面は穏やかに空を写している。真っ暗にならないうちに街まで戻らないといけないと思い、山を降りた。さて、ここからが一苦労である。この時間にもなると現地の人もまばらで、帰りのバスを確認するのも難しい。山を降りたところでキョロキョロと見回すと、湖沿いに停まった車の周りに人が集まっている。様子を伺っていると、その中の一人から、こちらに来いと手招きをされた。近寄ってみれば、おっさん数人が車を囲んで酒盛りをしている。赤ら顔のおっさんにアラックを勧められた。アラックとは、トルコやシリアで飲まれる蒸留酒で、アブサンに似ていて、水をさすと白く濁る。口当たりは良いが、アルコール度数が相当高く悪酔いの元凶だ。シリアのアレッポで、アラックのお陰で凄まじい二日酔いを経験済みなので、慎重に1杯だけいただくことにする。一人英語が堪能なおじさんがいたので、彼と話をしていたのだが、やはり地震の話になった。「ワンにまた地震が来るのかどうか教えてくれ。日本人は地震のプロフェッショナルだろう?」なんという無茶振り。しかしなるほど、日本人はそういう目で見られているのか。「うーん、地震はいつ来てもおかしくはないから、備えをしとくにこしたことはないよ」と、気難しい顔をして至極当たり前のことを言うと、おっさんは感激して他の人に翻訳して伝えてくれた。

気が付けば周囲は真っ暗になっていて、帰りのバスが来るのかどうかすら怪しい時間。「なんとか帰る手段はないだろうか?」と聞いてみると、その中の一人が「ちょっと待て」と言って、道行く車を停め、その運転手と何か話をしている。すぐに戻って来て、「さ、さ、早く!」と急かされ、何が何だかわからないまま、彼が停めた車に乗せられた。わざわざ街へ行く車を探してくれたのだった。ちゃんとお礼を言う暇も与えられることなく、私を乗せてその車は街へと走りだした。車には若い父親と可愛い幼い女の子が乗っていて、ようやくホッと一息つく。彼らは、街の中心部へ向かう混雑した道を進み、宿の近所まで送り届けてくれた。今度は丁重にお礼を言って車を降りる。いつも現地でいろんな人に助けられて旅をしているのだ。感謝。感謝。

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