2012年、トルコ、ワン、その2。宮崎淳さんのこと。

2011年11月10日、ワンで一人の日本人が亡くなった。宮崎淳さん。10月の大地震の救援活動のボランティアでワンに滞在中、宿泊されていたホテルが余震で倒壊したのだ。私は、日本でそのニュースを見ていたのだが、申し訳ないことにお名前まで覚えていなかった。しかし、ワンの街で地元の人と話していて、私が「日本から来た」と言うと、「オー!ミヤザーキ!」と悲しそうな顔をされるのだ。それも、一人ではなく、本当に多くの人から。すぐに亡くなった方の苗字が「宮崎」だったということを思い出す。

宮崎さんが亡くなったのは、ワンの中心部にあるホテル・バイラムだという。地元の人に道を聞いて、そのホテルの跡地に行ってみた。そこは、銀色の金属の衝立で囲われており、高級ホテルが建っていたことを想起させるものは残っていない。衝立の隙間から中を覗いてみても、ただ瓦礫が散らばっているだけだ。

ホテル・バイラムの跡地に向かって手を合わせていると、黒のチャドルで全身を覆ったおばあさんがこちらにやって来て話しかけてきた。このような服装の女性は敬虔なイスラム教徒なので、男性の、しかも異教徒に話しかけるようなことはほとんどない。聞き取れた単語は、「ミヤザーキ」と、トルコ語で「友達」の「アルカダーシュ」、さらに「アルカダーシュ」を意味する右手の人差し指と左手の人差し指を擦り合わせるジェスチャー。彼女は、私に「宮崎さんの友達なのか?」と聞いているようだ。トルコ語で説明することもできないので、「エベット(Yes)」と答えると、その女性は死を悼むような仕草をした。ヒジャーブの奥の目は少し潤んでいるようにも見えた。

この地震では500人以上の命が奪われているので、同じ国だからという理由だけで殊更一人の死を強調するつもりはないが、それでも、故郷から遠く離れたトルコ東部の辺鄙な地で、その救援活動の中、無念にも亡くなった異邦人に対し、この街の人達はみんな彼のことを覚えていて、本気で胸を痛めている。彼の意思は、この街で確かに生き続けているような気がした。どうか、宮崎淳さんのご遺族やご友人に、この事実が届きますように。

2012年、トルコ、ワン、その1。

翌朝は9時に出発するワン行きのバスに乗る。私がチェックアウトしたときには、一緒に宿にチェックインしたマレーシア人の彼は既に出発したようだったが(カッパドキアに向かうと言っていたな)、アメリカ人のNicoはまだ部屋にいるとのこと。邪魔をするのも申し訳ないので、別れの挨拶だけ書き置きを残し、一人バス会社のオフィスに向かった。

バス会社のオフィスでチケットを買い、出発までは少し時間があったので、昨日訪れた八百屋の親父に挨拶をする。親父は本当に大喜びで、朝飯代わりにバナナとチャイをくれた。出発の時間が近くなり、次はクルドの祭りのときにおいでと言われ、固い握手をして別れた。急いでバスの乗り場に向かうと、そこにはNicoがいた。今回も同じバスで同じ目的地に向かうとのこと。なんという運命共同体。

バスは満席。ドゥバヤジットの街を出て、だだっ広い草原を走った後で、いくつかの山を越えると、右手に青く輝く巨大な湖が見えてきた。これがワン湖で、目指すワンは湖のほとりにある大きな街だ。ワンは、2011年10月にマグニチュード7の地震に襲われ、500人以上の方が亡くなった。東日本大震災の直後だったこともあり、同じ地震多発地帯に生きる者として気になっていたし、当時は何かしたいが何もできないもどかしさを感じていた。さらに、この旅を計画したとき、ワンの街が地震でどう変わったのかを調べようとしたが、英語のサイトを含めほとんど情報が得られなかった。だから、ワンの街の現在をしっかりと見つめるのは、この旅の大きなテーマの一つである。

バスを降り、Nicoと一緒に安宿を探して街の中心部を歩く。ワンの街は賑やかで、古い建物も含めて壊れた形跡もほとんどないし、外見的には地震の影響を感じさせない。しかし、間接的な被害は確かに生じているようだった。実は、ワンのホテルのほとんどは休業中で、特に安宿は壊滅的だ。Lonely Planetや地球の歩き方の情報を頼りにしても、安宿らしい安宿は全て閉まっている。道行く人に聞き、ようやく見つけた宿も一部屋70 TLと破格の高さ。これはドゥバヤジットの3倍以上だ。重い荷物を持って長い時間歩き回っていたので、Nicoも私もはいい加減うんざりしていた。次に見つけたホテル、バス・トイレ無しの50 TLの部屋を2人でシェアすることに決めた。

とりあえず部屋に荷物を置いて、共用のバスルームに入る。入って初めて気が付いた。トイレはあるが、なぜかシャワーがない。当然の如くホテルのスタッフを問い詰める。ちなみに、こいつは英語がほとんどできないので身振り手振りで会話するしかない。
私「おいこら!シャワーないやんけ!どういうことやねん!」
彼「あれ?そんなこと言ったっけ?」
私「お前が共同のシャワーがあるゆうから、ここに決めたんやろが!」
彼「わかった、わかった。大丈夫だ。20時だ。20時にもう一度言ってくれ」
私「え?20時?」
ハマムにでも連れて行ってくれるのだろうか。さっぱりわからないが、宿を変える気力もなかったので、そのまま引き下がってしまった。ついでに言及しておくと、その日の夜20時に、そいつを見つけて、
「おい、20時やぞ。シャワーは?」と聞くと、
「ん?今日はもう遅いだろ。明日だな、明日」と、取り付く島もないのである。まあ、そんなしょうもないエピソードはどうでもいい。この街について書かなければならない大事なことは山ほどあるので。

ワンを散策する。ワンの街は、ドゥバヤジットに比べてずっと大きく、美しく且つ巨大なモスクが点在しているし、路地の具合も歩いていて心地よい。ホテルが悲劇的なことを除けば、本当に素晴らしい街である。チャイハネの外でトルコ式バックギャモンに興じていた連中に交わりNicoがトライしている間、私はいまいちルールがわからないのでキョロキョロしていると、チャイハネの中から声をかけてくる者がいた。20歳台から50歳台までの男性5人。彼等は英語を全く話せないのだが、彼らの口から「PKK」「ゲリラ」の単語は聞き取ることができた。どうやら、PKKのメンバーであるらしい。彼らにトルコの地図を見せると、トルコの右半分を指差し、「クルディスタン!」と笑顔で言った。

Nicoがゲームを負けてチャイハネの中に入ってきたので、「彼ら、PKKのメンバーらしいよ」と言うと、興味津々で話に加わる。Nicoが「タリバンはどうだ?アルカイダは?Yesか?Noか?」とガシガシ切り込む。どうやら「我々はクルディスタンの独立を目指しているだけで、他の組織とは関係がない」と言っているようだ。こちらは英語、向こうはトルコ語で会話しているので、大筋はわかったような気にもなるが、詳しいところになると自信がない。

ふと気付いたことがある。昨日のドゥバヤジットで話をした2人ともPKKには否定的な意見を持っていたが、よく考えれば、彼らは英語が堪能だった。英語が堪能であるということは、そこそこの高等教育を受けるだけの経済的な余裕があるということだ。当然、貧しい人たちほど政府に対する不満は高まり、結果として過激な独立運動に繋がる。せっかく現地を訪れたとしても、クルド人がクルドの問題をどう捉えているかは、英語では決して見えてこない。クルド語を学ぶのは困難だとしても、せめてトルコ語だけでももうちょっと理解できれば、また全然違ったトルコ、そしてクルドが現れてくるはずなのに。

彼らに礼を言ってチャイハネを出る。「普通にPKKのメンバーがいるなんて、びっくりした。」とNicoも興奮していたが、もっと話をしたいけれど言葉が通じないもどかしさを2人とも感じながら、一旦宿に戻ることにした。

2012年、トルコ、ドゥバヤジット、その2。

イサクパシャ宮殿からヒッチハイクで街まで戻り、ふらふらと散歩していると、小さな八百屋から親父がこちらを見て手招きをしていた。特にすることもないので、そのお店にお邪魔することにする。お店の奥の椅子に座らせてもらい、インスタントのコーヒーと、陳列されていたイチゴを数個いただく。イチゴは酸味が強く、すっきりとした味わい。バナナも勧められたが、さすがにお腹がいっぱいになったので断る。珍しく、この親父も英語が堪能だったので、いろんな話をすることができた。彼は、若い頃にトルコ西部で教師をやっていたそうだが、ドゥバヤジットに戻って来てからは、ガイドとしてアララト山に何度も登ったという。思い切って、PKKについてどう思うか聞いてみた。PKKとは、クルディスタン労働者党のことで、クルド人居住区の独立を求めてトルコ政府と交戦状態にある組織であり、国際的にはテロリスト集団とされている。

「PKK?あいつらのことは認めていない。クルディスタンが独立できたらいいが、クルド人はいろんな国(イラン・イラク・シリア)に散らばっているし、現実的には無理だろう。私達の生活は確かに貧しいが、トルコでも自由に暮らしていける。自由を求めだしたらキリがないからね。」政治の話がタブーだったらどうしようと心配していたので、優しい答えにホッとした。クルド人の皆が独立を強く求めているわけではないし、PKKは、極一部の特殊な者に過ぎないのだろうと、この時は、そう思った。

その他にも、クルド語を教えてもらったり、ドゥバヤジットやトルコの歴史の話をしたり、1時間くらいゆっくりした後で、散歩を再開することにした。親父がなんとも寂しそうな顔を見せるので、翌日の再訪を誓う。八百屋の外に出ると、いつの間にか晴れた空が広がっていて、傾きかけた日の光にアララト山が美しく照らされていた。アララト山が綺麗に見える場所を探しながら街を歩く。5000m級の山なだけあって、街中からでも、その巨大な姿に圧倒される。

夕方になれば街全体をアザーンの物憂げな声が包み込み、その音が鳴る方向へ細い路地を進むと、モスクの裏側に居心地のよい広場を見つけた。広場の椅子に座ってチャイを飲みながら、近所の商店で買ったミックスナッツを齧る。日本人の旅行者は珍しいのか、座っているだけで、いろんな人に声を掛けられる。写真を撮れとせがまれ、シャッターを押すと、それだけで満足そうな笑顔を見せて立ち去っていく。素朴な人達ばかりで、こちらも嬉しくなる。

日も沈もうかとする頃、昼間に訪れたバスターミナルの近所のチャイハネに足を伸ばせば、閑散とした店内で、昼間にクルド語を教えてくれたおっさんが待っていた。チャイハネはもうすぐ閉店だというので、おっさんのオフィスに行くと、缶ビールを差し出される。トルコはイスラム圏だが、酒を自由に楽しむことができるのだ。イランから来た旅人は、この街に辿り着き、ビールが普通に買えるその素晴らしい事実に感動の涙を流すことだろう。

ビールを飲みながら、おっさんにもPKKの話を振ってみた。おっさんは、「政治の話はやめよう。」と、少し嫌そうな顔をして言った。確かに、その気持ちは理解できる。結局、ビールを1リットル胃の中に流しこみながら、くだらない下ネタ話にさんざん花を咲かせた。男同士の下ネタの盛り上がりは万国共通である。ビールに含まれるアルコールが長旅で疲れた体を駆け巡った結果、強烈な眠気が襲って来たので、おっさんに別れを告げ、真っ暗な道を、これまたふらふらと宿まで戻り、そのまま湿っぽいベッドに倒れ込んだ。

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