翌朝は9時に出発するワン行きのバスに乗る。私がチェックアウトしたときには、一緒に宿にチェックインしたマレーシア人の彼は既に出発したようだったが(カッパドキアに向かうと言っていたな)、アメリカ人のNicoはまだ部屋にいるとのこと。邪魔をするのも申し訳ないので、別れの挨拶だけ書き置きを残し、一人バス会社のオフィスに向かった。
バス会社のオフィスでチケットを買い、出発までは少し時間があったので、昨日訪れた八百屋の親父に挨拶をする。親父は本当に大喜びで、朝飯代わりにバナナとチャイをくれた。出発の時間が近くなり、次はクルドの祭りのときにおいでと言われ、固い握手をして別れた。急いでバスの乗り場に向かうと、そこにはNicoがいた。今回も同じバスで同じ目的地に向かうとのこと。なんという運命共同体。
バスは満席。ドゥバヤジットの街を出て、だだっ広い草原を走った後で、いくつかの山を越えると、右手に青く輝く巨大な湖が見えてきた。これがワン湖で、目指すワンは湖のほとりにある大きな街だ。ワンは、2011年10月にマグニチュード7の地震に襲われ、500人以上の方が亡くなった。東日本大震災の直後だったこともあり、同じ地震多発地帯に生きる者として気になっていたし、当時は何かしたいが何もできないもどかしさを感じていた。さらに、この旅を計画したとき、ワンの街が地震でどう変わったのかを調べようとしたが、英語のサイトを含めほとんど情報が得られなかった。だから、ワンの街の現在をしっかりと見つめるのは、この旅の大きなテーマの一つである。
バスを降り、Nicoと一緒に安宿を探して街の中心部を歩く。ワンの街は賑やかで、古い建物も含めて壊れた形跡もほとんどないし、外見的には地震の影響を感じさせない。しかし、間接的な被害は確かに生じているようだった。実は、ワンのホテルのほとんどは休業中で、特に安宿は壊滅的だ。Lonely Planetや地球の歩き方の情報を頼りにしても、安宿らしい安宿は全て閉まっている。道行く人に聞き、ようやく見つけた宿も一部屋70 TLと破格の高さ。これはドゥバヤジットの3倍以上だ。重い荷物を持って長い時間歩き回っていたので、Nicoも私もはいい加減うんざりしていた。次に見つけたホテル、バス・トイレ無しの50 TLの部屋を2人でシェアすることに決めた。
とりあえず部屋に荷物を置いて、共用のバスルームに入る。入って初めて気が付いた。トイレはあるが、なぜかシャワーがない。当然の如くホテルのスタッフを問い詰める。ちなみに、こいつは英語がほとんどできないので身振り手振りで会話するしかない。
私「おいこら!シャワーないやんけ!どういうことやねん!」
彼「あれ?そんなこと言ったっけ?」
私「お前が共同のシャワーがあるゆうから、ここに決めたんやろが!」
彼「わかった、わかった。大丈夫だ。20時だ。20時にもう一度言ってくれ」
私「え?20時?」
ハマムにでも連れて行ってくれるのだろうか。さっぱりわからないが、宿を変える気力もなかったので、そのまま引き下がってしまった。ついでに言及しておくと、その日の夜20時に、そいつを見つけて、
「おい、20時やぞ。シャワーは?」と聞くと、
「ん?今日はもう遅いだろ。明日だな、明日」と、取り付く島もないのである。まあ、そんなしょうもないエピソードはどうでもいい。この街について書かなければならない大事なことは山ほどあるので。
ワンを散策する。ワンの街は、ドゥバヤジットに比べてずっと大きく、美しく且つ巨大なモスクが点在しているし、路地の具合も歩いていて心地よい。ホテルが悲劇的なことを除けば、本当に素晴らしい街である。チャイハネの外でトルコ式バックギャモンに興じていた連中に交わりNicoがトライしている間、私はいまいちルールがわからないのでキョロキョロしていると、チャイハネの中から声をかけてくる者がいた。20歳台から50歳台までの男性5人。彼等は英語を全く話せないのだが、彼らの口から「PKK」「ゲリラ」の単語は聞き取ることができた。どうやら、PKKのメンバーであるらしい。彼らにトルコの地図を見せると、トルコの右半分を指差し、「クルディスタン!」と笑顔で言った。
Nicoがゲームを負けてチャイハネの中に入ってきたので、「彼ら、PKKのメンバーらしいよ」と言うと、興味津々で話に加わる。Nicoが「タリバンはどうだ?アルカイダは?Yesか?Noか?」とガシガシ切り込む。どうやら「我々はクルディスタンの独立を目指しているだけで、他の組織とは関係がない」と言っているようだ。こちらは英語、向こうはトルコ語で会話しているので、大筋はわかったような気にもなるが、詳しいところになると自信がない。
ふと気付いたことがある。昨日のドゥバヤジットで話をした2人ともPKKには否定的な意見を持っていたが、よく考えれば、彼らは英語が堪能だった。英語が堪能であるということは、そこそこの高等教育を受けるだけの経済的な余裕があるということだ。当然、貧しい人たちほど政府に対する不満は高まり、結果として過激な独立運動に繋がる。せっかく現地を訪れたとしても、クルド人がクルドの問題をどう捉えているかは、英語では決して見えてこない。クルド語を学ぶのは困難だとしても、せめてトルコ語だけでももうちょっと理解できれば、また全然違ったトルコ、そしてクルドが現れてくるはずなのに。
彼らに礼を言ってチャイハネを出る。「普通にPKKのメンバーがいるなんて、びっくりした。」とNicoも興奮していたが、もっと話をしたいけれど言葉が通じないもどかしさを2人とも感じながら、一旦宿に戻ることにした。