南へ(この夏の記録)、その2。

 ある程度のところまで書いていて初めて気付いたのだが、自転車旅の旅行記っておもしろくないのな。「あそこからそこまで走った。ここは快適。そこからあそこで走った。ここはしんどい」の繰り返しなので。基本、昼間は淡々と走っているだけだしね。夜の銭湯と居酒屋巡りは、もちろんいろんな出会いがあるのだけれども、こちらの体力がボロボロで、早よ寝たいという思いがついつい勝ってしまい、なかなか頑張れないし。
 だから、めんどくさくなったのでやめた。せっかく写真は撮ったので、それだけ貼ろうと思う。一日中ペダルを漕ぐから少しでも荷物を減らさないといけないはずなのに、デジタル一眼と替えのレンズ一本が収められたバックパックが肩をいわす。どうせ自転車旅なんか写真なんてたまにしか撮らないからコンパクトでも十分なはずと今は思うのだが、なぜかそれでは我慢出来ない。きっと、これは、ほとんど病気である。

 さて、こちらは宮崎県内を走っていたときにお世話になった日向夏ジュース。疲れた体にちょうどいい甘さで、しかも安いので飲みまくった。写真は350mLだが、もちろん500mLもある。宮崎県内のJA等のインディペンデント系自動販売機で購入可能。

 最も印象的だったのは、3日目の宮崎市から県内最南端の都井岬に至るまで。朝日が眩しい日南海岸は快適、日南市を過ぎると一気に人の住む気配が無くなり、景色が亜熱帯的になる。急激なアップダウンの後、殺人的な山道を登り切れば野生馬が繁殖するという都井岬。写真の腕が悪いので全然伝わらないんだが、都井岬に至るまでの海岸線の異国感が半端ないのですよ。暑さにやられて意識が朦朧としていたからということもいくらかは関係あるかもしれない。ないのかもしれない。

 都井岬から山を駆け降りてしばし走れば鹿児島県に至る。志布志。駅前の観光案内所で安いホテルを教えてもらう。案内所のお姉ちゃんが可愛かった。明日、九州最南端の大隅半島に行こうかどうしようか迷っていると伝えると、行っても何もないよと言われてルートを変更する。本音で会話できる案内所は、何より嬉しい。写真の銀座通も含め、漁師町らしく雰囲気のいい飲み屋が多い。ふらりと立ち寄った、こういう街で1泊するのが、自転車旅の最高の贅沢である。

 志布志で1泊した後で今回のゴールの鹿児島を目指した。天気が悪く、桜島が雲を被っていたのが残念だった。九州新幹線で大阪まで簡単に大阪まで帰れてしまうのが、便利な反面、遠くまで来たという情緒が掻き消される。そもそも、九州新幹線の存在が無かったら、私は鹿児島市内で一泊して、飲んで、微力ながらも地域経済活性化に貢献できたのに。うー。

 さて、これで、大阪から鹿児島まで自転車で繋がってしまった訳で。次の休みは、鹿児島から出発して天草など九州の東側を攻めたいと思う。こんな旅、しんどいこと以外に何も残らないんだが、まあ、完全に病気だ。

南へ(この夏の記録)。

ブログを始めたのは、この事務所の独立を機にサイトを立ち上げたとき、サイトを作成してくれたT氏が、「コンテンツないからさあ、ブログでもやれば?」と言い放ったからである。ええ、すいません。どうせコンテンツもないからね。それで、ブログをやることにした訳だ。今更だったのだが。

で、悩んだのだ。ブログに何を書くか。
弁理士は客の秘密を扱う職業である以上、仕事の詳細をおおっぴらにすることはできないから、そんなスレスレのところで曖昧なことを書いても面白味はないし。他の弁理士様は法律論や判例研究をブログにまとめていらっしゃって、それは物凄い偉業だと思うけれども、私のキャラではないのは明らかだし、絶対無理だ。

で、旅の話だけをするつもりで始めた。ここには仕事の話がほとんどないので、いや、こいつは一体何をしとるのだと極稀にご心配されることもあるのだが、大丈夫です。ええ、今のところは。

旅の話をする。

物心ついたときから旅が好きだった。生まれて初めての海外は中学2年生。教室の後ろの壁に貼ってあったホームステイの募集を見て、なぜか心を鷲掴みにされたので、すぐに応募した。そのときはシンガポールで2週間。他の選択肢は米国、英国、インドネシアだったことを考えると、その頃から一貫性があった。今だったら迷わずインドネシアやけどな。

大学生のときは、タイ、マレーシア、インド、ネパール、それからラオスをリュック一つで回ったが、旅よりも音楽の方に精力を傾けていたので、そこまで気合の入ったバックパッカーではなかった。長くても1ヶ月みたいな。休学して長旅も考えたが、あれよあれよと言う間に身の回りが慌ただしくなり、気付いたら就職、転職、独立となり、今に至る。

むしろ、就職した後の方が少ない休みを有効活用しようと必死に考えるので、旅の深みは増したかもしれない。昔みたいに目的を決めず、ふらふらと街から街へと渡りあるくような旅はできないが、普段の仕事で抑圧されている分、解放感が半端ないし、だらだらと1箇所に滞在することがないので新鮮味がある。本当に、休ませていただいていることに感謝ですよ。そのぶん普段は夜遅くまで酷使されているので勘弁していただきたく。

さて、海外への飛び出しとは別に、最近、自転車(貰い物)がすっかり気に入っている。大阪から海岸線をひた走ろうと決意をしたのが2年前で、3~4日ずつ西へ西へと向かい、前回の春の連休は別府までたどり着いた。この夏は別府から南へ、鹿児島まで向かった3泊4日の旅。そのうち続きを書く。

2010年→2011年、ビルマ、ヤンゴン、いや、ラングーン。

 ガバリからヤンゴンへ飛び、1泊して翌日の夜の便で日本に帰る。ここは旅で一番精神的に堪えるときだ。小さくて個性的な街で好きなだけゆっくりした後、帰国のために強制的に立ち寄らされる、その国一番の大都会。ところでビルマ一の大都会「ヤンゴン」は、軍事政権が国名を「ミャンマー」としたときに一緒に変更された新しい名前である。昔の現地の発音に合わせたようだが、「ラングーン」の方が響きがいいと思う。意味は、「戦いの終り/ラングーン」。美しい言葉だねえ。やっぱり「ラングーン」にしようか。道中出会った白人は、みんな「ラングーン」と呼んでいたし。物の本によれば、「ミャンマー」の国名変更にあっさりと従ったのは日本だけという話もあった。

 空港から降り立つとすぐに感じる熱気と排気ガスと騒々しさ。空港でタクシーを捕まえて、下町の安宿を確保したときには日が暮れていた。タクシーを待たせたまま安宿に慌ててチェックインし、急いでシュエダゴン・パゴダに向かう。







 ここはビルマ仏教最大の聖地で、世界一美しいと言われる金色の仏塔が聳える。ラングーンの下町からタクシーで10分程走ったところ、山一個がまるまる寺院だ。山の頂上には、ライトアップされ光り輝く巨大な仏塔と、その周りで跪いて熱心に祈る人々、さらにそれを取り巻く無数の小さな仏塔、所狭と無理矢理に配置された仏像、ケバケバしい電飾。神聖でもあり、一方で猥雑でもあり。仏塔は本物の金で、宝石が埋め込まれているとの情報もあり、決してこの国は貧しくはない。方法が、方法だけが問題なのだ。でも、そんな方法は近い将来、確実に変えることができると信じている。





 パゴダをじっくりと味わった後、チャイナタウンへと向かう。目的はもちろん屋台。そうだ、このために東南アジアを旅しているようなものだ。細い路地を占領するように店が立ち並び、どこも生ビールを飲む若者で埋まっている。地元の人を見習って生ビールと串焼きと麺をいただく。ここも貧困国のイメージからはほど遠くて、意外と物が溢れているし、夜遅くまで賑やかだ。奴等のパワーは凄まじい。





 ビルマの最終日。ラングーン市内をぷらぷらと歩く。コロニアル様式の建物が残る街並みは東南アジアでは珍しい。カラフルな建物がビルマの強い日の光に照らされて、いっそう鮮やかに映る。世界の潮流から取り残された多文化都市の魅力。パゴダが聳える通り沿いにある、イスラムモスク、ヒンドゥー寺院、中国系仏教寺院。数ブロック歩けば一気に変貌する街の空気、でも建物は全てコロニアル。バンコクとかクアラルンプールとか、急激に成長した他の東南アジアの都市では失われたであろう、むせ返るような強烈な個性がある。






 本音を言えばもう少しだけゆっくりしたかったが、この日の夜の便でバンコクへ飛び、数時間のトランジットの末、翌朝には何事もなく無事に日本に戻ってきた。

最後に少しだけ旅の総括を。

 その1。ラングーン・バガン・インレー湖、これにマンダレーを加えた旅程がポピュラーだが、それぞれの街が悪い感じに離れていて、陸路だと20時間は覚悟のため、日程に余裕がないと辛い。飛行機を選択したが、味気なかったのが正直なところ。
 その2。驚きの白人天国。さすがクリスマスシーズン。宿は意外と高く、飛行機は常時満席。当然、観光は主要産業となっているので、いたるところでお金を回収されるのが腹立つ。入域料はほんと勘弁していただきたい。
 その3。正規の為替レートが使えないので、旅行者は闇両替を利用することになるが、これが著しく不安定。旅行中にドルが急激に安くなって、入国時には1$=900kyat~1000kyatだったものが、帰国時には1$=700kyatまで下がった。何軒か回っても同じだったし、理由が「Independence Dayだから」って意味わからん。というかレートがどうやって決まっているのかわけわからん。
 その4。バガン・インレー湖は有名な観光地で、観光地然とした土地であり、ガバリはリゾートで、リゾート然とした土地であった。そのため、全体的になんとなく不完全燃焼。ビルマの生活の中に入っていくような経験はできなかった要は10日程度では辛い。これはいつも思うことだが、それをより一層強く感じた国であった。
 その5。日本では国名は「ミャンマー」とされている。ただ、この国で古くから根付いた文化や、そこに住む人々を呼称する際は「ビルマ」が使われる。現地でも、自分の国を「ミャンマー」と呼んでも、自分のことは「ビルマ人」と呼ぶ人に多く出会った。自分が旅をする対象は、昔から「国」ではなく「文化」だ。だからこそ、ここでは何の躊躇もなく「ビルマ」という呼称を使った次第。

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