フンザ、その3。ちょっと頑張って出かけたフンザ川の向こう側。

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ウルタル・メドーでの地獄の特訓もといトレッキングを終えた翌日、しっかり風邪を引いたので、ゆっくりと過ごす。フンザでは、何かをすると決めない限り、何もすることはない。朝日が昇り日差しが強くなるまでの変わりゆく光に応じて刻一刻と移り変わる景色を眺める。散歩に出かけ、人懐っこい子供たちや暇そうなおっちゃんや、シャイなお姉さんと世間話をし、チャイとアンズやリンゴをご馳走になる。いつの間にか日が傾いていて7000mの山の影がずうっと遠くまで伸びるのを見つめながら日暮れを惜しむ。晩飯の素朴な豆カレーを腹いっぱい食べ、明るい月の下で寝る。旅から戻って旅の話をしようとしても、「眺めがよくて人がよくて居心地がよくて飯が旨くて」と、そんな陳腐な言葉に収斂されるから魅力を伝えるのは正直難しい。でも、結局は人生で求めるものって、そんなシンプルなことだろうと思っている。

それでも、何もしないのも悔しいので、翌日はちょっと頑張って遠出をすることにした。フンザ川の対岸のナガールの、さらに奥にあるホッパーという村は、地元で知り合った兄ちゃんがお勧めしてくれた場所だ。車を用意してもらおうと宿の主に相談し、1日3,000ルピーでお願いする。晩飯を食べ終えてのんびりしているとブブルがやって来た。「明日のホッパーだが、地元に詳しいスペシャルなガイドを用意しようか?美味しいな昼飯も付くぞ」と言ってきた。値段を尋ねると、「10,000ルピー」とのこと。さすがにそれは高い。じゃあ、ガイドは来てもらったら嬉しいけど昼飯は適当に済ませる、と答えると、ブブルは「じゃあ、いくらならいい?」と食らいつく。「車も含めて5,000ルピー」と答えれば、ブブルは少し悩んだ後でOKと言って去っていった。昼飯を抜いただけで5000ルピー安くなるってどんな豪華な昼飯だったんだろうか、これで明日のガイドがブブルだったら笑うよなとか、突っ込みどころは満載だった。

翌朝、準備をして待ち合わせ場所に行くと、「俺がガイドだ」と言うブブルがいた。やはり単なる彼の小遣い稼ぎだったようだ。高校卒業間もない10代、こうやって商売を覚えていくのだと思うと、なかなかに微笑ましい。英語は上手だし、土地にも歴史にも詳しいし、ガイドとしては申し分ない。ちょっと払い過ぎた気もするけど、まあいいや。いい商売人に育ってくれれば。

ドライバーに加えブブルも一緒に狭い車に乗り込んで出発。まずは、カリマバードから山を下ったところにあるガネーシュを訪問する。この村はブブルの生まれ故郷だった。フンザの村では最も古く、マケドニアからのアレクサンドロス三世の遠征でやって来た人々が切り拓いたことが起こりで、本当かどうかは知らないが、みなアレクサンドロス三世の末裔であると自負している。村全体が見渡せる塔の入り口は鍵がかかっており、ブブルが連れてきたどこぞのおっさんが鍵を開けてくれた。これもガイドがあってこそ。

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ガニーシュからフンザ川を越え、さらに支流のヒスパー川に沿って未舗装の細い山道を登って約1時間、突然視界が開けた。ホッパーは、四方を山に囲まれたすり鉢の底にあたる小さな村で、その裏手には巨大な氷河が横たわっている。ブブルに急かされ、痛む足に鞭打ちながら氷河の上を歩いた後で、極普通のダル(しかし旨い)を食べ、村をぶらぶらと散歩する。標高が高いので、カリマバードでは既に散ってしまったアンズの花が満開だ。素朴なカリマバードよりも、さらに旅行者慣れしていない様子で、僕らが歩いているだけで物珍しげに子どもたちが集まってくる。ブブルの紹介で村の小学校に案内され、日本の教育制度について知りたがる校長先生の熱い質問をなんとかかわしながらチャイをいただく。午後になって太陽は厚い雲の向こう側に姿を消し、ひんやりとした空気が静かな村を包んでいた。車で来た山道を下りカリマバードに戻る。この日はお湯が出たので、シャワーと洗濯をして眠る。そろそろこの旅も半分、ここを離れる日が近づいていた。

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南相馬。夏、馬が駆ける。

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夏の記憶の断片。遅々として進まぬパキスタンの話は一旦置いて。

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灼熱の西日本から、未だ梅雨が明け切らない北国へ飛んだ7月の終わり。辿り着いた南相馬の原町は、馬が道のど真ん中を元気よく走り回っている。アスファルトを叩く蹄のカッポカッポという音が街中に心地よく響く。いつの間にか僕らにとって大事な場所になった「まちなかひろば」では、相馬野馬追の前夜祭となる「NOMA LIVE」の真只中で、ディネードやキビタンらの活躍を眺めつつ、寒さに耐えながらビールを飲んだ。日中から降ったり止んだりを繰り返していた雨は、暗闇が訪れ、近くの旭公園から艶やかな山車が出発し、いよいよ祭りが盛り上がろうかとする頃、突然の豪雨に変わった。雷がすぐ耳元で轟き、爆音とともに何処かに落ちる。散歩していた僕らが慌ててまちなかひろばに引き返すと、客を店の中に避難させながら、それでもギリギリのところでライブが行われていた。近くの公園で予定されていた盆踊りの中止の連絡が入り、ずぶ濡れになった人は駅に向かって走り去っていく。湿ったシャツに体温を急激に奪われながらも、流れ続ける音楽に救われた。気が付けば、さんざん大暴れした雨と雷が落ち着いた。いつもの友人達と、気合で飲み続けた数名の客とがわいわいと盛り上げるなか、浪江町出身の歌手がトリを飾って、時刻は21時。スタッフも客も関係なく片付けに走り回り、そのまま打ち上げに変わる。乾杯の挨拶の「ここの人たちの頭のネジが10本くらい外れていることも、すっかり全国区となりまして」という言葉は誇張でも何でもない。その力強さに惹かれて、全国から人が集まってくるのだ。

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翌日。天気は奇跡的に回復した。厚い雲の合間から太陽も夏の顔を少しだけ見せてくれている。昨日の酒が抜け切らないなか、朝早く起き出した。この日が相馬野馬追いのメインの日。相双の各地から馬に乗って集まってきた武者は、巨大な隊列をなして祭場へと行進していく。僕はちょうど、知り合いの屋台のお手伝いをしていたのだが、馬がやってくると、みんな仕事を放り出した。騎馬は、それぞれの家に代々伝わる旗を掲げてやってくる。落ち着いて優雅に歩く馬もいれば、年に一度の見せ場に奮い立ち、目をひんむいて今にも暴れ出しそうな馬もいる。

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僕も店の手伝いも忘れて行列を眺めていると、1頭の騎馬が目の前で立ち止まった。見事な甲冑に身を包んで馬の背に乗った男が、大きな声を出した。

「ご観覧いただいている皆様方に申し上げます。相馬野馬追執行委員長の桜井和伸であります!」南相馬市の桜井市長だ。そうして始まった口上を、友人が偶然録画していた映像から、一言一句そのまま書き表す。

「本年の相馬野馬追は、東日本大震災にも負けない、原発事故にも負けない、相馬のもののふの堂々たる進軍をご覧頂きたい。なお、今後とも皆様方には、相馬地方の復興にご尽力いただきますようお願い申し上げます。重ねて…(観客の拍手と歓声で遮られ)、重ねて、ご支援をいただきますようお願い申し上げ、ご挨拶といたします。以上!」

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そして桜井市長を乗せた馬は堂々と歩いて去っていった。これを目の前で見ていた僕は、目が涙で溢れそうになり、それを誤魔化すために、「いやー、すごいねー、こりゃー、すごい」と騒いでいたのだが、そうでもしていなかったら涙がこぼれていただろう。前日のまちなかひろばで、野馬追への思いもいろいろ聞いていた。平将門から受け継がれるこの行事、海沿いで飼っていた馬は津波で流され、飯舘の馬は泣く泣く見放され、でも、日本中からの支援もあって馬が集められたこと。そして、ようやくこの2013年、ほぼ震災前の頭数まで祭りの規模を戻すことができたこと。それでも、まだ浪江や双葉、大熊からは参加できないところも多くあること。そんな話を思い出しながら、桜井市長の口上が頭の中をぐるぐるぐるぐる回るのだった。

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祭場では、甲冑競馬、神旗争奪戦と執り行われ、大盛り上がりの中、この日の野馬追の行事が終わった。夕方、まちなかひろばに顔を出すと、いつの間にか宴会が始まり、隣の魚屋で買ってきたカツオとタコの刺し身をアテに、いつもの馬鹿な話で盛り上がる。その数日後、東北地方の梅雨明けが発表された。北国の爽やかな夏がやって来たのだ。

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フンザ、その2。ウルタル・メドーへの道のりは美しくも残酷であって。

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晩御飯は宿泊しているオールド・フンザ・インでいただく。昨日に続いてこの夜も停電で、ガスランプの灯りの下で食事をする。ダル(豆の煮込み)と野菜と炊きたての米だけの簡素な食事だが、味付けが素朴で美味しく、腹いっぱい食べた。10年以上前に一人で行ったネパールの山奥を思い出す。山でいただく食事はいい思い出ばかりで、それはきっと、味付け以上の何かのせいだろう。晩飯の席で、宿の主にウルタル・メドーに行ってみたいと告げる。ウルタルのベースキャンプもある牧草地で、カリマバードからは歩いて行けるとガイドブックには書いてあった。ガイドを紹介してくれるとのことで、朝8時出発を約束して部屋に戻った。満月のせいで満天の星空とはいかなかったが、驚くほど明るい月の光を受け、夜の世界が白く浮かび上がり、ひんやりと冷たい空気が歩き疲れた体に深く染み入る。晩飯を済ませれて歯を磨けば、他にすることは何もない。蝋燭を吹き消し、毛布を被ってぐっすりと寝た。

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翌日は快晴で、前日は雲の後ろに隠れ気味だったウルタルが巨大な姿を惜しげも無く晒していた。バルティット・フォートの背後の奥まったところまで歩いて行くのだ。宿に紹介してもらったガイドは、初日から世話になっていたブブルとその友達のアリだった。昼過ぎには戻って来られるらしいし、軽いハイキングのつもりだったので、足元はサンダル、カメラとミネラルウォータだけ担いでぶらぶらと歩き出す。カリマバードの小さなマーケットを抜けると山道に入る。ちょうどバルティット・フォートの裏側まで来ると、フンザの谷の全景が見渡すことができる。その開放的な景色に思わず「夢のようだ」という言葉が漏れた。ここまでは、まあ、順調であるのだがしかし。

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谷沿いの道を歩いていると、突如道が無くなった。そこは、大小の岩が無造作に転がるただの斜面。ガイドのはずのブブルは「去年来たときは道があったんだけどなー。雨で流れたかなー。」とか呑気なことを言っていて、さっさと斜面をよじ登ってしまう。「ここを抜けたらもうちょっと歩き易い道があるから!」と、ずっと言っているものの、道らしい道はなかなか姿を見せない。どう考えてもサンダルで歩くべきところではないのだ。足元はぐらつく瓦礫に吸い込まれ、頭上を見上げると巨大な岩が今にも転がり落ちそうに危なっかしく居座っている。両手両足で懸命に斜面をよじ登っていくと、足場がよい場所に辿り着いた。氷河が溶けて小川となっていて、冷たく澄んだ水で顔と手足を洗い、少しだけリフレッシュ。ブブルは、「さあ、まだまだこれからだ!」と、なにかと元気がいい。そして、道なき斜面がひたすら続いていく。

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後から知ったことだが、実はここは既に富士山の頂上と同じくらいの標高だったのだ。酸素が薄く、慣れていない者にとっては少し斜面を登っただけで息が切れる。元気に登って行く10代のブブルの背中を見ながら、これは年のせいだけじゃないと自分に言い聞かせながら、ぜえぜえと息を切らしていた。出発から3時間半、ようやくウルタル・メドーが見えてきた。ウルタルへアタックするベースキャンプもこの場所に置かれる。ガイドのブブルによれば、夏になると緑豊かな美しい牧草地に変わり、ヤギが放牧されているらしい。雪解け間もない春だったので、一面に広がる牧草を想像することは難しく、心に残ったのは、切り立った山々と巨大な氷河による、ただただ厳しい自然の姿だった。古い小屋で休憩して、ブブルの持って来たビスケットとドライフルーツを噛る。巨大な氷河から流れ出る冷たい水で顔を洗って、少ない酸素で朦朧とした意識を現実の世界に引き戻す。

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このウルタルで最も難所の、ウルタルII峰の登頂に世界で初めて成功したのが、登山家の長谷川恒男さんだ。彼が、同行した星野清隆さんと雪崩に巻き込まれて亡くなったのはこの場所だった。ウルタル・メドーの一画には、長谷川恒男さん・星野清隆さんのお墓があって、日本製の狛犬が静かにそれを見守っている。長谷川恒男さんは心底フンザの土地に惚れ込んでいて、その遺族が彼の意志を継いでこの土地に小学校を作ったことも有名な話。フンザと日本の不思議で深い繋がりが垣間見える。

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さあ、そろそろ山を下らないと。荒れ果てた斜面は上るよりも下る方が体に堪える。ああ、足を上げるだけでも辛い。サンダルを踏ん張る力もなくなってきて、途中何度か滑り落ちそうになる。次は、ちゃんとした靴を履いていくこと。必死の思いでカリマバードの街に戻ってきたのは既に夕方。両足は全く言うことを聞けないほどに重く、日焼け止めを塗るのを忘れた肌はピリピリと熱を持っていた。ふらふらになりながら宿を目指して歩いていると、ちょうど学校が終わった時間だったのか子供たちが遊んでいる。最後の最後でこんな素敵な笑顔の女の子に巡り会えることができて、シャッターを押した瞬間、全ての疲れが飛んだのだ(ほんの一瞬だけ)。

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