2011年、キューバ、トリニダー。

メーデーの余韻醒めやらぬまま、サンティアゴ・デ・クーバからViazul社の深夜バスで8時間ほど。キューバ島のほぼ中央の南側にトリニダーの街はある。早朝にトリニダーのバスターミナルに着くと、案の定Casa Particularの客引きが大量に待ち構えていた。若いお姉さんが推してくるCasaは旧市街の中心部に近そうだったので、そこに連れて行ってもらうことにした。バスターミナルから歩いて5分ほどのCasaだが、ここは本当に大正解だった。親切な家族と、広くて快適な部屋と、景気の綺麗なルーフトップ、そして何より、お母さんの手作りで、量がたっぷりの朝飯と晩飯が絶品だったのである。

トリニダーは素朴な石畳が残った小さな古い街だ。デコボコの石畳は少し歩きにくいが、コロニアルでカラフルな家を見ながらのんびりと歩き回るだけで最高に楽しい。突き抜けるような青空に、原色の建物がよく映える。マイヨール広場にある塔を望む風景(この投稿の一番上の写真)は、硬貨のデザインにもなっている。日本にとってみれば、平等院鳳凰堂みたいなものだ。

トリニダーは世界遺産にも登録されている所謂観光地であるが、典型的な観光地臭さはあまり感じない。マイヨール広場の周辺は観光客が多く、土産物売りから逃げるのに疲れるのだが、広場から通りを1本隔てただけで、静かな街並みを楽しむことができる。頭上で太陽がギラギラと燃え盛っている時間は、通りに人をほとんど見かけない。どこかで昼寝でもしているのだろうな。暑いし。たまに馬車がのんびりと追い抜いていく。手頃なカフェで冷えたビールを飲みながら、巨大なトカゲの写真を撮ったりして、贅沢な時間をゆっくりと過ごす。

トリニダーは丘の上にあって、それを下っていくとカリブ海に至る。Casaで自転車を借りて、ろくに機能しないブレーキに気を配りつつ、重いペダルを30分程踏みしめれば、美しいカリブ海が広がっている。ビーチは、リゾートというには程遠く、小学生の夏休みに行った海水浴場を彷彿とさせるチープさだが、これがまた魅力。

日が傾いて少し涼しくなれば、学校から帰ってきた子供たちの笑顔が通りに溢れ返る。僕がカメラを向けたときに返してくれた笑顔は、この街が一番だった。日が沈むまでひたすらに散歩して、Casaで山盛り(且つ美味)の食事をいただいた後は、真っ暗な道を歩いてライブハウスへと。

サンティアゴほどではないものの、トリニダーにもいくつかライブハウスがある。なかでも、老舗の風格を漂わせるCasa de la Trovaには滞在中に何度も通った。地元の常連さんとも仲良くなって、深夜2時近くまで、飲んだり、踊ったり。一緒に撮った写真を送ったのだが、ちゃんと届いているだろうか。

ハバナの華やかさ、サンティアゴの熱さ、そして、トリニダーの穏やかさ。キューバの旅としては至極メジャーな3都市であるが、それぞれの街に強烈な個性を感じるのは、資本に侵されていないこの国だからこそかもしれない。人々の明るさの裏には、もちろん貧しさがあるのだろうけれども、それをほとんど感じさせない。もちろん、ちゃっかりと小銭やビールをねだってくるのだが、カラリとしているので嫌な感じもしない。今後、この国の社会の抱える矛盾はどんどん拡大していくのだろうが、人々のこの明るさで乗り切ってくれることを心の底から期待している。また近いうちに訪れたいと思う。

トリニダーでゆっくりと過ごした後、バスでハバナに戻り、泣きながらトロント、そして成田へと飛んだ。そして、この後、いろんな意味での一人旅が再び始まるのであった。

2011年、キューバ、サンティアゴ・デ・クーバ、その2。

 さて、正直なところキューバでのメーデーに関する事前知識は一切なかったので、5月1日にサンティアゴ・デ・クーバに滞在することになったのは100%の偶然である。帰国してから調べてみても、ハバナでのメーデーのレポートはあっても、その他の街のものはほとんどない。残念ながら休刊する「旅行人」に、小さな記事で地方都市のメーデーのパレードが紹介されていたくらいだ。詳細な情報満載でお馴染みのLonely Planetでさえ「ハバナで軍事パレードがあるよ~」と軽く記載されていただけだった。旅の途中でその記載には目を通したはずだったが、軍事パレードには一切興味を持てなかったので、記憶の片隅からも削除されていたという訳である。

 思い返せば、ここはキューバ革命発祥の地であるわけで。当然のことながら人も、街の暑さと同じくらいに、熱い。それはサンティアゴ・デ・クーバ滞在2日目のこと。旧市街や郊外の要塞等をあらかた堪能した後でCasa Particularに戻ると、奥さんから「マニャーナ(明日)、フィエスタ!」ということを教えてもらって、そういえば明日はメーデーだったことを、ここでようやく思い出した。おお、メーデーそのものには興味を持てなくても、「フィエスタ」となれば話が違うだろう。何時からだ?と聞けば、旦那さんは夜の3時には起床するとのこと。いや、それはちょっと辛いと怯んでいると、「5時に起きれば十分だ」と言うので、そのようにモーニングコールを頼む。実際、その夜は日付が変わる頃からパーカッションの音が遠くから永遠と鳴り響くような状態で、ベッドの中でついついテンションが上がり、なかなか寝付けなかった。まるで遠足の前日の子供のような。

 5月1日朝5時起床。朝ご飯をいただいて、サンティアゴ・デ・クーバの革命広場へと向かう。まだ外は暗い。迷子になるのでは、という心配は無用だった。どの道が革命広場に通じているかなんて、そんなものすぐわかる。夜明け前のこの時間から大通りいっぱいに人が広がって、ある者は太鼓を叩きながら、ある者は踊りながら、ある者は歌いながら、文字通り老若男女が皆同じ方向に歩いていたからだ。太鼓隊は10人以上が集う本格的なものから、2・3人の小規模なものまで、思い思いに打ち鳴らし、その場にたまたま居合わせた人々が踊りや歌で呼応するというスタイル。楽しくて、いろんな太鼓隊の様子をみていたら、いつの間にか空が明るくなっていて、ふと気がつけば、そこは革命広場だった。

 革命広場のど真ん中に聳え立つ巨大なアントニオ・マセオの像の前に厳かな雛壇が設けられていて(実は、パレードの最中、その雛壇にラウル・カストロが来ていたらしい。そんなこと知らなかったので、雛壇なんか気にも留めてなかったよ!)、そこを先頭に思い思いの横断幕やプラカードを持った人々が列をなしていて、その列の後方は遥か彼方に霞んでいる。日が高くなるにつれて、その列はさらに膨れ上がる。この圧巻の光景に興奮して歩き回っていると、3tくらいはありそうなトラックの荷台の上でスタンバイをしていた、赤いTシャツを着た数十人の太鼓隊と出会った。手招きに従ってトラックの荷台に載せてもらう。「飲むか?」と聞かれ差し出されるのは、もちろんラム「Havana Club」の小瓶。瓶のまま、ごくりと一口いただくことを何回も繰り返し、朝からすっかりホロ酔いである。

 トラックの荷台の上では、写真を撮れ撮れとせがまれたり、軽く太鼓を打ち鳴らして踊ったり、朝から盛り上がっている。そんな中も広場を埋め尽くす人はどんどん増えていく。そして、太陽がすっかり昇りきった朝8時頃、徐々に人々が動き出す。パレードのスタートだ。僕にラムを勧めてくれた兄ちゃんがパレードを指差して「一緒に行こうぜ」と誘うので、二人で荷台を降りて紛れ込む。学校か、職場か、町内会かはよくわからないが、いくつかの梯団に別れて歩いている。キューバ国旗や、カストロやゲバラの写真、革命や自由やメーデーを祝すような垂れ幕から、怪しげなオブジェまで、さまざまなメッセージを掲げながら、道いっぱいに広がって歩いて行く。

 パーカッションを打ち鳴らす集団が歩いてやってきた。一緒にいた彼が、手拍子の打ち方を教えてくれた。文字に起こすと、こんな感じ。“たっっっっ、たんっ、たんっ、っっったっ、たん、たっっっっ、たんっ、たんっ、っっったっ、たん” 2拍目の“たんっ”が1/32か1/64だけ後ろにズレるので、跳ね跳ねである。甲高い音でクラーベがリードしつつ、さらに複数のリズムパターンを奏でるパーカッションとこの手拍子が複雑怪奇に混ざり合い、巨大なうねりを生み出す。文字で起こすと陳腐だが、映像見ていただければ少しでは雰囲気が伝わるだろう。この独特のリズムは「コンガ」と呼ばれ、この地が発祥とのこと。楽器の「コンガ」は、リズムの呼称が誤って定着したものらしい。真偽の程は定かではないが。

 さて、私がついさっきまで荷台にいたトラック(要は、サウンドカーである。)は、数十人の巨大な太鼓隊を積んで、もちろん(笑)、パレードの最後尾からゆっくりスタートする。激しくリズムを打ち鳴らしながらトラックは進み、それを取り囲み踊る人々は等比級数的に増えていく。革命広場を出れば、サンティアゴ・デ・クーバの街一番の大通りがサウンドカーとそれを取り囲む人々で占拠された。既に時刻は10時を回り、太陽は痛いほどの日差しを投げかけているが、それすらもパワーに変えて、腰をふりふり、声をあげて、手拍子を打ち鳴らしながら、踊り、歌い、騒ぐ。

 サウンドカーは、革命広場からリベルタドーレス通りへと至り、リベルタドーレス通りを西に入ってマルティ通りにたどり着いたところでサウンドカーは一旦解散。だが、まだ1日は始まったばかりだ。本当の路上解放はここからである。マルティ通りには既にサウンドシステムがいくつも準備されていて、キューバ版ダンスホール・レゲエ的な音楽が爆音で鳴らされている。その並びには、CUP(人民ペソ)で買える生ビール屋台があって、すっかり人だかりができている。まあ、ダンスホール系の音楽は正直しんどかったので、CUPでビールを買って少し休憩する。ふと通りを見れば、つい先程までトラックの上にいたパーカッション隊が、今度は路上を練り歩きながら踊りの輪を膨らませている。急いでその輪の中心に入り込んで、汗びっしょりになりながら、見よう見まねで僕も踊る。踊りながら誰かと目が合えばビールやラムが差し出されるし、「グラシアス」と言って返せば、「フォトフォト」と言われるので写真を撮る。キューバの人たちは本当に踊りが上手く、みんな心から楽しそうに激しく体を動かしている。生まれたときからこのリズムが体の中に叩き込まれているのだろう。僕らが河内音頭を聞けば自動的に体が動いてしまうように。

 例えばシリアでも、例えばイランでも、例えばビルマでも、僕が今まで旅した国では必ず現体制の批判をする人たちと出会った。だが、この国ではラウル・カストロへの文句は耳にしても、フィデル・カストロに対しては不思議と賞賛ばかりだった。50年間愛される指導者というのは世界的に稀だ。それを、カストロの人間性とみるか、キューバの国家的洗脳の結果とみるか、その両方とみるかは意見が別れるところだろう。それは専門家に任せておく。素人の僕は、そもそも政治を良いものと悪いものの2元論で捉えることはしたくないので、よその国を旅するときは政治から切り離し、街の人の姿だけを見ることにしている。そして、この日のサンティアゴ・デ・クーバの路上で出会った人たちは、それぞれのメッセージを掲げながら、心の底から楽しそうな顔をしていたということだけは事実。

 原発事故やウォール街占拠をきっかけに日本でも路上に出てメッセージを訴える行為が増えているし、その運動はもっと盛り上がるべきだと思う。どんな社会にしたいかというそれぞれの思いと、それをメッセージとして訴える場所である路上は、そもそも誰かに管理されるものではないのだし。


 
 この日のサンティアゴの路上は、陽が沈むまでダンスフロアと化していた。僕はこの余韻を(これを書いている今でも)引き摺りながら、その翌日の深夜バスでキューバ島の中部の静かな田舎街トリニダーへと向かう。

2011年、キューバ、サンティアゴ・デ・クーバ、その1。

 ハバナからバスで15時間、キューバ島の東の端にサンティアゴ・デ・クーバ(Santiago de Cuba)がある。キューバ革命の契機となったモンカダ兵営や、メキシコに逃亡した革命軍が再上陸を果たしたシエラマエストラ等、キューバ革命の歴史を紐解くうえでは避けられない固有名詞は、この地域にたいへん多い(知らん奴は自分で調べろ!)。ハバナからはViazul社のバスが毎日運行しているのだが、まずチケットを買うのに苦労させられる。バスのオフィスは旧市街からタクシーで片道15分程かかり、タクシー代はCUC払いで決して安くはないので、オフィスまでチケットを買いにだけ行くことはめんどくさい。ただ、ハバナには、なぜか、ツーリストが集まる都市には必ずあるはずの旅行代理店というものがほとんど存在していないのである(2011年現在)。Casaのお母さんの頼りない情報を頼りに大きなホテルに行ってみたら、航空券は扱っているが、バスは無理だということ。さらに、ツーリストインフォメーションに行って、さらに頼りない情報を頼りに別のホテルにも行ってみたが、そこも同じ反応である。旅行代理店は間違いなく需要があると思うのだが、なんでだ。

 どうせなんとかなるだろうと思って、バスの時間だけ確認して予約なしで突入する。15時発の便に合わせて、14時にViazul社のオフィスに行ったところ、あえなく満席で撃沈。21時発であれば空席があったので、予約だけして、重いバックパックを担いで泣く泣く旧市街に引き返した。そこで捕まえたタクの運ちゃんは陽気な奴で(というか、陽気でないキューバ人に出会うことはなかったが)、僕の懇親の片言スペイン語ギャグに爆笑していたので、まあ、よかったこととする。後で知ったのだが、ネットでも予約を受け付けているらしい。まともに機能しているかどうかは未確認だが。

 20時過ぎ、懇親の片言スペイン語ギャグに爆笑するタクシードライバーを呼び出して、再びViazul社のオフィスへ。どんなボロバスが来るのだろうと期待していたら、リクライニングのしっかりした現代的なバスで驚く。15時間の長旅だったが、旅の疲れもあって、しっかり睡眠を取ることができた。昼前にサンティアゴに到着。ハバナからのバスは1日数便なので、サンティアゴのバスターミナルには、バスの到着に合わせてCasa Particularの客引きがわんさか待ち構えていた。一瞬で客引きに囲まれたが、なかでも一番押しの強かったお姉さんのところに決める。旧市街の中心部からは少し離れていたが、綺麗で、ルーフトップも使えて、朝食も美味しかったので満足である。

 サンティアゴは坂が多い。坂の上にある旧市街の中心部に立つと、海まで道が伸びているのが一望できる。旧市街の中心になるのは美しいカテドラルのある公園。ハバナよりも旧市街の規模は小さく、人も車も少なく落ち着いているし、日差しは強いし、そして、街の空気の濃密さみたいなものは、こちらの方が上だ。こういう街は歩いているだけで刺激的で、数日くらいすぐに経ってしまう。それでも全く飽きることがない。

 旧市街から歩いて30分程のところにあるモンカダ兵営はキューバ革命の最初のアクションを起こしたところとして知られている。現在では革命博物館となっているが、銃弾の痕跡をあえて残していて、これが生々しい。博物館の前で警備をしていた兵士が銃痕について丁寧に説明してくれたのだが、全てスペイン語だったので、ほとんどわからなかった。こちらがわからないのにも関わらず一方的にしゃべり続けるので、彼の熱意だけは伝わったよ。「グラーシアス」と言って、握手して別れる。

 そして、革命の街として有名なだけでなく、ここは音楽が殊更に盛んだ。朝から晩まで、街の中に音楽が溢れている。昼間は、旧市街の街角で流しのミュージシャンが奏で、夕方になるとカフェの前や公園でちょっとしたイベントが催され、夜はライブハウスで地元のバンドが深夜まで演奏する。ライブハウスは、歩き方に載っているような観光客向けのものでも、地元の人も多く遊びに来ていたりして、いつの間にかフロアではダンスパーティーが始まる。また、小さくて暗くて埃っぽい、本当にローカルのライブハウスにも足を運んでみたりもした。若いメンバーの多いバンドで、キューバ音楽にしては珍しくサックスが入ったジャズ的な要素を感じる音楽で、とても刺激的だった。この街で出会ったミュージシャンは、もちろん上手い下手はあり、ストリートとライブハウスではクオリティの差は歴然としていたが、演奏しているときはみんな心の底から楽しそうな表情をしていたことが印象的である。

 下の写真は、(いつものように)突然の豪雨に見舞われた後、散歩した雨上がりのサンティアゴである。雨が上がった直後の凛とした空気が好きだ。いや、決して雨男だから言っている訳ではなく。結局、あまりに居心地がよくて4日間をこの街で過ごしてしまったのだが、運よく出会ったメーデーの日の衝撃について、この次にじっくり書いてみる。

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